私の履歴書 シリーズ2 許斐 氏大:慶應から拓けたヒップホップへの道
(インタビュアー:余語徹郎)
許斐 氏大(このみ うぢひろ)
ヒップホップミュージシャン UZI
幼稚舎から普通部、塾高を経て法学部政治学科卒
高校で1年、大学で3年半の留年を経験。塾高在学中に2学年上のラッパーZeebra(ジブラ)、DJ OASIS(ディージェイ・オアシス)と出会いヒップホップの道へ。
夢は叶った:慶應への恩返し
俺、夢だったんだよね。慶應のキャンパスでラップやるのが。連合三田会では日吉でライブができて、三田祭ではライブじゃないけどラップバトルの慶早戦の司会をZeebraと一緒にやった。当時フリースタイルダンジョンっていう番組をZeebraとやってたからってのもあって、超盛り上がってさ。慶應とヒップホップって直結しないけど、だからこそ自分の音楽で学校の行事に関われたってことは凄く光栄だったし、感極まるものがあったのよ。
7年半の歳月を経てつかんだ法学部政治学科卒業の切符
“脅迫メール疑惑”からの”慶應愛”
大学にはトータル7年半通った。最初の4年間は親に学費を出してもらったけど、落第した3年半は全部自分で払ってた。その頃ライブとかで稼ぎ良くてさ。もちろん学校には全然行けてなかったよ。夜中まで音楽やってるから午前中から学校なんてとても行けない生活。
高校で1回と大学で3回半落ちたもんだから小学校の同級生が講師になってて、その授業とって単位もらったり。あとは大学院生の試験監督がツカツカツカってやって来てさ、何かと思ったら後輩で。「許斐さん、ガンバってください」とか言われちゃったりしてさ(笑)。
そんなこともあってなんとか卒業が見えたのに1つだけ単位が取れなかった。情報処理の授業だったんだけど。たまたま日吉でその担当講師を見つけてね。「先生、単位ください!」って言ったら「君にはあげない!」って言われて。この講師、年下だったもんだからコノヤロー!ってなって「くれ!」「あげない!」「くれ!」「あげない!」…とやりあった。そのうち俺と講師の周りに100人くらいの人だかりができちゃってさ。先生は恥ずかしくなったのか「君にあげる単位はないから!」って走って逃げて行っちゃったのよ。で、速攻で近くのコンピューター教室から先生にメール。「後期も学校にいたら俺、先生のところに絶対挨拶行きますから」って。お礼参りを匂わせてるもんだから法学部長に呼び出されちゃってさ。
「君、こういうメールを出したそうだね」ってプリントアウトしたメールを見せられて。こっちは挨拶してるだけだって言い張った。そこから俺の慶應に対する思いを20~30分かけて熱く語ったのよ。
そしたら法学部長がバーン!って机叩いて「君、気に入った!僕が情報処理の先生から課題をもらってあげるから、それをやりなさい」って。結局、本当に課題をもらって、それをこなして夏休みの終わりくらいに一人だけで卒業したの。これが俺の「脅迫メール卒業事件」。在学時代の最後の思い出だね。
塾高時代のワルい先輩との出会いがラッパーへの道につながる
在学中にはもうラッパーで行くと決めてたし、大学卒業は必須じゃなかったのでは?って言われるんだけどさ。卒業にこだわったのは親のためなんだよね。慶應という素晴らしい環境を与えてくれた両親に対する、ささやかな恩返し。
塾高で落第した17~18歳のとき、六本木で遊んでたらKGDR(キングギドラ)(※日本のヒップホップ・シーンで最も影響力を持つグループの1つ。メンバーはKダブシャイン(ケーダブシャイン)、Zeebra、DJ OASIS)がライブやるところにたまたま遭遇してさ。
KGDRはラッパーのZeebraとDJ OASISが幼稚舎出身。Zeebraは中学で退学、OASISは高校まで行ったんだけど、この2人との出会いが俺が音楽をやるきっかけになったの。だから、あの二人が慶應じゃなかったとしたら、もしくは俺が慶應じゃなかったら、ラッパーになってなかったかも知れない。
DJ OASISが塾高で落第した時に学年が重なってて。学校で揉め事があった時には一番前に立つような人だったからこえー!て思ってたんだけど、音楽を始めてから別人のように丸くなってた。で、六本木のゲーセンでたまたま会って、「今日ライブやるから見に来いよ」って言われて見に行ったの。
それまで英語のラップはかっこいいけど、日本語のラップはダサいと思ってたんだけどさ。そのライブで「ペンは剣よりも強し」ってリリック(※歌詞)にバチコンやられたんだよね~。
英語のラップは塾高のとき授業中ディスクマンで聞きあさってなんでも知ってる状態だった。だからKGDRもヒップホップにこんな詳しい後輩いたんだって喜んでくれてさ。俺もライブ見て感動したしラップやりたい!って言ってKGDRにラップのノウハウを1~10まで叩き込んでもらって今があるんだ。
禍福(かふく)は糾える(あざなえる)縄の如し
幸も不幸もある人生、縦も横もきっちり繋がれる強い縄が慶應
「禍福は糾える縄の如し」って言葉があってさ。幸と不幸は変転するしめ縄のようなものでそれが人生だ、って言葉なんだけど。慶應は強い縄だと思うんだ。いいことも悪いこともあるけど、縦も横もきっちり繋がって、それが慶應っていう屈強な布地になってる。そういう多様性に富んだ経験や出会いがあるから、どんなことに出くわしても割とスッと受け止められちゃうんだよね、慶應のやつらって。
“Knock Out”って俺の代表曲があるんだけど、ノックアウトってKOじゃん。
慶應なんだよね。慶應が世の中をノックアウトさせてやるぜって気持ちで書いたんだ。やっぱ自分のアイデンティティーの奥底に慶應の一員ってのがあるんだよね。そういう気持ちで音楽やって来てる自負もあるし、俺。
どんなに年が離れてても社会に出て慶應の卒業生ってだけで共通項ができて、先輩たちは絶対可愛がってくれるし、後輩たちは絶対可愛がる。今日はこれから25こ下のもぐらっていう慶應のラッパーと会うんだよね。まだ学生なんだけど何か協力してあげたいという気持ちになっちゃう。もぐらのYouTubeにも喜んで出てあげるし、こういう気持ちにさせてくれるところが慶應の良さだと思うよ。俺がZeebraやOASISの影響を受けてラッパーの道を選んだように音楽の道に進む後輩が出て来てくれたら嬉しい。
だからこういう学校をつくって、1万円札の顔にもなってる福澤諭吉、リスペクトだよね。生き方もまっすぐで飾らないし。今、諭吉が目の前にいたらフリースタイルバトルして勝ちたいね。(笑)
せっかくだから二郎でもいっとく?
【インタビューを終えて】
UZI。その風貌も生き様も、凡そ世間一般の「慶應ボーイ」のイメージからかけ離れていないだろうか?しかしその男が誰よりも熱い慶應義塾への想いを心に宿している。そういうところが慶應の面白さであり強さなのかも知れない。決して綺麗事だけでは済まないこの世の中で、絶対に譲れない自身の軸を持ち、その根底には「社中協力」「自我作故」「独立自尊」といった福澤諭吉の思想が随所に織り込まれ、“屈強な慶應の布地”の一部を担っている。そんなUZIを同級生に持つことを誇りに思う。
インタビュアー
余語 徹郎
1997年 理工学部電気工学科卒業
1999年 政策・メディア研究科修了
住友商事株式会社 新事業投資部/グローバルCVCチーム長
一貫してIT関連事業に従事。週末は小学生のラグビースクールのコーチ。趣味は食べ歩き。。。