私の履歴書 シリーズ10 杉本 享子・井上 桂子:一人一人に寄り添い支え合う 「みんなと繋がりを感じられることが幸せ」

(インタビューアー 湧永 寛仁・山上 淳)

杉本 享子(すぎもと きょうこ)

保健師

1975年生まれ。神奈川県出身。慶應義塾看護短期大学看護学科卒。
東京医科歯科大学医学部保健衛生学科看護学専攻3年次編入。卒後、同大医学部付属病院看護師、慶應義塾大学看護医療学部助手。その後主婦、保育園看護師を経て、今春より大磯町会計年度任用職員(保健師)として住民の子育て支援に携わる。自身も悩み多き5児の母。

井上 桂子(いのうえ けいこ)

原鶴温泉六峰舘女将

1972年生まれ。福岡県出身。慶應義塾看護短期大学看護学科卒。
卒後、福岡県にある九州医療センターにて4年半勤務。結婚を機に原鶴温泉にて旅館業の道へ。今年21年目に突入し、オンリーワンの宿を目指して奮闘中。

小さなころから身近な存在 看護師になりたい!
湧永:まず井上さんから、どんなお子様だったのかというところをお願いできますでしょうか?
井上:私は3人きょうだいの末っ子で、兄と姉がいるんです。小さいころからとても社交的で、奔放な子どもだったような気がします。兄と姉を見ているから世渡りが上手なんですかね。上のきょうだいがケンカをしていると、部屋にサッと隠れて自分が被害を受けないようにしていた記憶があります。
湧永:慶應は看護短大からということですね。中学、高校はいかがだったでしょうか?
井上:中学、高校は勉強嫌いで、なんとなく大学受験をしたら案の定失敗をして。浪人中に、なんでこんなに勉強しなくちゃいけないのか、自分の進路について改めて考えて行き着いたのが看護師でした。家族が入退院を繰り返していて、私にとって病院は身近な場所だったんです。いちばんの動機は、自分の居場所。「あなたがいい」と言ってもらえるような、人と接する仕事をしたいと思ってその夏から看護師を目指して勉強をして、ご縁があったのが慶應でした。看護師を目指すと伝えたときに父親から「やりたいことをするためだったらお金はいくらでも出すから、頑張りなさい」って言ってもらえて。それまで優秀な兄と姉に対するコンプレックスがあったのですが、初めて父親に認められたと感じて嬉しかったのを覚えています。
湧永:杉本さんはいかがでしょうか?
杉本:私は4人きょうだいの長女で、早生まれだということもあって体が小さく運動が苦手な泣き虫のおしゃべりさん。私が生まれる前、母が小児科の看護師をしていたので、よくその頃の話を聞いていて。幼稚園のころには、看護師になりたいとみんなの前で話した記憶があります。
湧永:それは早い。ある意味、初志貫徹ですね。
杉本:他が目に入らなかったというか、進路変更ができずにそのまま今まで来てしまった感じです。なりたい職業の第1希望はいつも看護師で。あとは本が好きだったり、私の父が高校の教師をしていたりで、教師になりたいというのと2本立てでした。

慶應看護短大へ いろいろな学部の人たちとの交流を求めて、看護以外の活動も
湧永:なぜ慶應の看護に行かれたんですか?
杉本:学生時代を看護ばかりじゃなくて、いろいろなことに触れられるようなところで過ごしたいと思って、多学部の中で看護を学べるというところで慶應に進みました。
井上:私もそれはあります。サークルとか、そういう普通の大学生活を楽しみたいというのがありました。いろいろな経験ができるかなと。他の医科大学もいろいろ受けはしましたが、慶應は一番魅力的でした。大学病院としてもトップクラスじゃないですか。そういう病院で実習ができるというのも魅力ではありました。
湧永:そうしますと、井上さんも慶應に入られて、大学生活はイメージ通りだったところはあったんですか?
井上:他の学部と一緒のテニスとスキーをするサークルに一つ入り、あとは中学のときから吹奏楽をしていたので、医学部の管弦楽に入りました。二つともとても楽しかったです。本当にいろいろなことを学び、いろいろあったけどトータルでみて得たものは多かったと思います。
湧永:杉本さんはいかがですか?
杉本:私は全塾の水泳サークルと、もうひとつ医学部と一緒の公衆衛生研究会に入っていて、夏に北海道の無医村で健診のお手伝いをしたりしました。
山上:それは素晴らしい活動ですね。
杉本:地元の方との交流もあったりして楽しかったです。あと、せっかくの学生時代だからもっといろいろなことを学びたくて、三田にあった慶應の外国語学校にも通いました。他学部生や社会人、外国籍の方もいらしたりして、すごく面白かったです。

看護短大時代の井上さん(後列一番右)

鬼の現場実習 看護師として覚悟と責任感を持って
湧永:看護学部の授業とは、どんな感じなのでしょうか。
井上:本当に鬼のようにレポートがありました。
杉本:いつも何かに追われていましたよね。
湧永:実習も大変そうですね。
杉本:1年生、2年生は少なかったけど、3年生になったらずっと、数週間ごとにいろいろな病棟を回って。1人の患者さんを受け持たせていただいて「今日はこういうことをしたいと思います」「手順はこうです」「なぜなら病態はこうで、治療は今、こんなことをしているから」「ケアをしてみたらこういう反応があった」「一般論はこうだけれどこの方の個別性は」みたいなことを毎日書いて持っていくんです。朝、実習計画を発表するのですが、指導係の看護師さんから「その根拠は?」とひとつひとつ質問されるんです。そんな具合なので、看護師さんと接するときは常に何を聞かれるかと緊張していました。
山上:先輩看護師さんの指導で、学生の時と新人の時の差というのはあるんですか?
井上:学生のときはまず「あなた何しに来たの」とガツンと打たれるところから入るんですけど、スタッフになったら、いちスタッフとして受け入れてもらった上で指導してもらいます。注射、点滴ひとつひとつにしても、仕事が終わってから、私の手にしてごらんと言って練習させてくれたり。厳しいながらも、親身になって教えてくださいました。
杉本:働き始めたばかりの頃、ある先輩に「次、何やる?何分でできる?」と言ってケアにかかる時間を測られて。最初はビクビクしながらやっていましたが、時間を意識して行動することを教えてくださっていたんですよね。自分のイメージと実際が結構違うんで、愕然としたことがありました。病棟時代の先輩方には本当にかわいがっていただいて、今でも年賀状のやりとりをさせてもらっています。自分が看護師になってから、実習中の看護師さんたちの「根拠は?」も、それなりの覚悟と責任感を持って患者さんに接してほしいということの表れだったんだなというのは実感しましたね。

看護短大時代の杉本さん(左から4番目)

井上:それはありますよね。患者さんにとっては学生も「自分にケアをする人」じゃないですか。だからそこにある程度の質を求められるというのは当然だなと思います。それにしても実習中は、その日の目標を言えないと一日が始まらないんですけど、看護師さんたちが忙しそうだしなかなか話しかけられる雰囲気でもなくてオロオロ。「何しについてきているの」みたいな、そんな感じでした。
杉本:私は家が遠かったので、実習中は朝5時過ぎの電車に乗っていました。次の電車だとギリギリなので。すると7時前には学校に着いちゃうんですよ。ところが7時にならないと守衛さんが校舎の鍵を開けに来ないから、同じように遠くから通う友達と寒い中震えながら待ったことが何度もありました。家を出るのが早いから、朝ごはん、昼ごはんとお弁当をふたつ持って行っていましたね。
山上:8時から日勤が始まるから、7時半ごろには病棟にいなければいけないということですよね。
井上:遅刻なんてとんでもないですもんね。いかに早く行くかですよね。
湧永:職場ですね、学校というより。
山上:大変だったと思いますね。

卒業後のそれぞれの道:井上さん実家のある福岡で看護師に 結婚を機に旅館の女将へと転身!
湧永:続いて、卒業後のお話をお願いできますでしょうか。
井上:私は地元の福岡に帰って、福岡の病院で就職しました。消化器内科に配属されました。担当の教育係の先輩が、毎日やり取りしながらずっと育ててくれて。そこの病棟に私は4年半いました。最初の半年は仕事のとき以外は病院の前を通るのも胃が痛くなるような感じで大変だったんです。周りの先輩たちに本当に助けていただきました。

看護師時代の井上さん(前列右から3番目)

その後、私は辞めて、福岡市から高速で1時間ほどの原鶴温泉にある六峰舘という旅館に嫁ぎました。今年で21年になります。
湧永:旅館の女将さんはそれこそ24時間体制なイメージがあります。
井上:旅館の規模にもよるんです。家族経営の小規模の旅館だと、朝起きてご飯炊きから始まって、朝食出してみたいな感じですが、うちは客室40室ぐらいで、ある程度従業員さんもいるのでちょっと違うかな。最初は若女将という肩書でしたが、今は一応、名刺上は「女将」です。明治からの旅館なので歴史は長いところなんですよ。

離れていても助け合う 看護短大の仲間との繋がりは宝物
井上:実習グループで一緒だった同期は、結婚式とかで来てもらったり。あとは毎年1回、夏にメンバー8人で集まって、こっちに来てくれたり、みんなで沖縄に行って旅行したりとか。私の実習グループの繋がりは本当に今でも強くて、私の中の宝物という感じです。
山上:いい話ですね。この25周年にふさわしい。
杉本:ある同期から、井上さんがコロナのときに東京組にマスクを送ってくれたという話を聞いて、それは素晴らしい、ぜひ私の履歴書に、という話になったの。
井上:旅館だから業者さんとの繋がりがあって。従業員さんを守るためにあちこちの業者さんに、とにかくマスクが手に入ったら届けてとお願いしていたの。でも届いた時には既に緊急事態宣言が出て、旅館は休館になったので、結局1カ月の間、使う機会がなかったんです。それならば今必要な人のところに送ったほうがいいから、と。実習グループのメンバーは本人が助産師だったり、家族が医療従事者だったりするのに並んでもマスクがなかなか買えなくて、2週間同じ使い捨てのマスクを洗って使っているなんて聞いていたので、とりあえず消毒液とかマスクとか、ペーパータオルとか、いろいろなものを詰め合わせて片っ端から送りました。
杉本:その行動力がすごいと思って。コロナで旅館にお客さんが来られなくなって、自分のところもきっとすごく大変だったろうにって。そういうときに周りの人のことを考えて動けるというのがすごいなと感動していました。
井上:でも本当にそのときは、それしかすることがなくて。旅館の掃除をして、座布団を干したり布団干したりするぐらいで。九州は東京より感染の拡がりが遅かったので、まだいろいろ手に入ったんですよね。それこそ3.11の時とかも、東京で納豆が1人1パックでさえなかなか買えないとか、お米が無いとか。あのころからです、頻繁に実習グループのみんなと連絡を取るようになって。九州が台風だったらみんな大丈夫?って心配してくれたり。水害のときもみんなに助けてもらったし。
湧永:素晴らしい繋がりですね。
井上:私たちの実習グループ、本当にすごいんですよ。
山上:このインタビューの内容として、慶應で学んだことが今に役立っていますか?という質問があるんですけど、今のが回答になっている感じですよね。素晴らしいです。
井上:今はSNSでつながっているんですけど、その時に困っていることとかをつぶやいて。忙しくて読むだけでコメント返せない人もいるんだけど、そういうのもみんな分かった上で、ポロンポロンと繋がって、気軽に。

卒業後のそれぞれの道:杉本さん ~ 四年制大学への編入~小児科病棟、そして慶應の看護医療学部へ
湧永:杉本さんは卒業後、何科に行かれたんですか?
杉本:私は慶應を出た後、都内の看護学専攻のある大学に編入したんです。大学を卒業してからはそこの大学病院の小児科で勤務していました。
山上:保健師とかを持っていらっしゃる?
杉本:実は今年、保健師デビューしたところなんです。
山上:看護短大で看護師を取った後に、さらに大学とか上の学校に行く方は、保健師か助産師を持っている方が多いですよね。
杉本:短大時代の実習が楽しかったので看護教員になりたいと思うようになって。教員になるなら四年制大学を出ていたほうがいいということで編入しました。編入の同期は、現場に出てから来られている人が半分以上いらして。だから本当に「もっと学びたい」という意識力の高い人が集まっていて、刺激的でした。
湧永:小児科は大変そうですよね。
杉本:楽しかったですよ。病気でも子どもは明るいじゃないですか。病状が辛い時は辛いし、中には本当に悲しいお別れもありましたけど、比較的元気な時は一緒に遊んだり、薬を飲まないと言って駄々こねてみたり。親が帰っちゃうと泣いて止まらない子とかもいたりして。最初はなかなかうまくできなくて、それこそ先輩に「何時間かかっているの」みたいなことも言われましたけど。

看護師時代の杉本さん(左側)

井上:本を読んであげたりとか。仕事というんじゃなくて、まず子どもとの関係をいかに作るかということですよね。
杉本:新人のころは子どもに試されましたよ。薬ひとつにしても先輩の看護師さんが来るとすぐ飲むんだけど、私だとなかなか飲んでくれない。最初は落ち込みましたが、途中からはそれも当たり前の反応だからと開き直って、そのあたりの駆け引きも楽しめるようになりました。
井上:甘えたかったりとかね。飲むまでは側にいてくれるとか、子どもなりにきっといろいろあるんでしょうね。
湧永:小児科はずっと続けられたという感じなんですね?
杉本:小児病棟3年目のときに、学部の小児看護の先生に指導してもらいながら院内研究をやっていたんです。将来的に教員を目指したいという話をしていたら、その先生が、ちょうど慶應で看護医療学部を新設するんで小児看護の助手の募集をしていると教えてくれて。本当にありがたいご縁だと思うんですけど。それでエントリーして採用されて、慶應の看護医療学部で2年間働いていました。
山上:看護医療学部の仕事はどういうことをされるんですか?ご自身が授業されるんですか?
杉本:看護医療学部では、当時「人間発達学」といって、赤ちゃんからお年寄りまで、人としての発達を一つの分野として授業をしていたのでそれぞれの授業のお手伝いとか、あとは専門としては小児分野に籍を置いていたので、実習要項の検討とか、実習施設との調整とか。1時間だけ授業も持たせてもらいました。他にも赤ちゃんとお母さんを対象にした母性看護の学内演習とか、地域看護の実習のお手伝いもしたことがありました。いろいろなところに駆り出されて関わるチャンスがあったんです。だから楽しかったですね。
井上:夢に向かってすごい!
杉本:2年やってその間に結婚したり子どもができたりして。助手の仕事は学部が走り始めたばかりということもあって内容も本当にいろいろだったし、不慣れなこともあって家に帰るのが10時とかになってしまうことが続いていたんです。上手に子育てと仕事を両立されている先輩方もいらしたのですが、私は子育てに専念したくて、教員はギブアップしました。それから15~16年主婦をして。子どもたちも少し大きくなって、いつかまた看護に携わりたいな、できれば子どもに関わるところに、と思っていたら、2年前に近くで保育園ナースの募集があるのを友達が教えてくれて、保育園ナースを1年半くらいして。いろいろあって辞めたところに、今度は隣町の子育て支援センターの保健師のパート募集を見つけて。保健師としての経験はなかったので少し悩みましたが思い切って飛び込んでみて、今はそこでお世話になっています。ブランクが長いんですけど、家のこととのバランスをみながらやりたいことをちょっとずつやらせてもらっている感じです。

慶應のアイデンティティ 留まらず、自らの力で切り拓く「今できる最良のことを!」
湧永:慶應に入ってよかったみたいなのはありますでしょうか?
杉本:この間、25周年の名簿登録の件でいろいろな人に連絡をしたんだけど、同じ経験をした者同士、そのときに帰れるというのかな、それこそ20何年ぶりにすごいドキドキして電話をかけても、声聞いたらお互い「ああ、〇〇ちゃん!」みたいな感じで話ができたり。慶應は本当にいい仲間に恵まれたという思いがすごくあります。「自分のやるべきこと」を考える人が多い気がしますね。慶應は、福沢諭吉先生の頃から「新しいことにどんどん対応していこうよ」みたいな空気があるじゃないですか。ただ同じことを繰り返していればいいというのではなくて「今できる最良のことを新しいものをとり入れながら作っていこう」という考えが。そういうのがよかったなと思うというか。
井上:分かりますよ。私、私じゃなくて、人のことも考えられるという。その場しのぎでもなくという。
杉本:ただ「やっていればいいんでしょ」「こなしていけばいいんでしょ」という考えではなくて、ちゃんと自分のこととして向き合って「よりよくしていこうぜ」みたいな意欲が高い人がすごく多かったような気がしますね。留まっていないというか。前に進んでいる感じ。
湧永:不思議ですよね。慶應にいるとなんとなく身につくんでしょうかね?
杉本:いろいろなところで学んだり働いたりする経験の中で、自分が看護師として、保健師として何をしようと考えるときのベースはやっぱり慶應で学んだことにあるんだなと感じることがすごく多くて。多分それは看護の分野に限ったことではなくて、例えば何らかの委員活動に対する意識でも。今回の96年三田会のことで話をした時にも、すごくスムーズに話の通じる感じが気持ちよかったというか、心地よかったというか。
湧永:特に看護チームはすごいですよね。名簿集めとかすごかったですよ。他の学部と比較して。
山上:それはさっき二人が話されていたように、看護短大が一番、「みんなで厳しい実習を一緒にくぐり抜けてきた」という運命共同体的な連帯感が強いからでしょうね。本当にすごいなと感心しましたね。
井上:実習グループで過ごした経験が大きいですよね。実習を乗り越えた絆というか。毎日同じカンファレンス室にこもってみんなでレポートを書いて、おしゃべりして。
杉本:今回の名簿登録の作業も、やることが決まったらみんながワーッと取り掛かったの。「じゃあ私誰々に連絡するね」みたいな話がすごく早かった。
山上:みんな戦友なんですよね、共同体意識が強い。
井上:戦友と言えるよね。学生時代に、サークルも違うし接点もそんなになかったけど、自然にというか。不思議なもので。
杉本:やっぱり特別な時間を共有したからなんでしょうね。今でも当時の実習記録が捨てられない、っていう同期、いっぱいいましたから。
湧永:大同窓会はリアルに集まってやりたいと思っていますので、看護短大の方々も、みんな積極的に乗り込んできてください。
井上:行きます!せっかくの25年というきっかけがあるのに、会わないなんてもったいない。

支え合い、助け合うことでつなげていく未来
湧永:では最後に、これからに向けて、未来に向けてというところで。杉本さんお願いできますでしょうか。
杉本:私の家の一番上の子が大学受験の年を迎えているんです。それぞれの子どもに豊かな経験をしてもらいたいなと思っていて。今いちばん力を注ぎたいのは親としての役割の部分なので、その辺のサポートができるように頑張りたいというのが、小さくて大きな目標というか。今、思い返すとあのとき父や母に沢山支えてもらって、ああいう学生生活を送ることができて、本当に私はよかったと思って。大変なこともいっぱいあったけど、すごく充実した濃い時間だったから。
職場での目標は、今年保健師デビューをしたので、若いころの初心を思い出して少しずつでも成長していけたらなと。今、子育て支援センターにいるんですけど、私自身も5人の子どもの子育て中で、毎日いろんなことがあって。子どもによっても、その成長過程によっても、親の悩みはいろいろだから、そういうひとつひとつに寄り添える保健師になりたいです。
井上:5人の子育ての経験はすごく活きると思う。今は少子化ですが、子どもは本当に大事な大事な宝じゃないですか。だから子どもの悲しいニュースが入ってくると、なんで、とすごく憤りを感じる。親御さんを支えて、そういうのを防いであげられる仕事だよね。
杉本:コロナ禍で、去年は子育て支援センターも閉所していた時期があるみたいなんです。今は予約制で1日何件までというのが決まっていて。そういういろいろな制限のある中でも子育ては日々続いていく。子育てって楽しいばかりじゃなくて、孤独になったり、うまくできない自分を責めて落ち込んだりすることが沢山あるから、親御さんは相談できる存在を求めていらっしゃるわけです。子育て支援センターはまさにそんな役割をするところ。そういう場所で自分にできることを探していきたいです。親も子ももっと自分に自信をもって、子育てや子ども時代のポジティブなところを目一杯楽しめる様に。
井上:お母さん同士も、今コロナでなかなか集まることが難しくて余計孤独感が強いし、そういう支援センターの人は大事ですよね。
杉本:そこが誰とも繋がらないと虐待が起きてきたりとか、いろいろなことが。最初から子どもに手をあげようと思っている親御さんはほとんどいないと思うんです。自分自身も完璧な親ではないと感じているからこそ、何かできることがあるんじゃないかなと考えています。
湧永:ありがとうございます。井上さん、お願いできますでしょうか?
井上:私はもう、医療からは全然違うところにいるんですけど、私が嫁いだときに一番思ったのは、旅館も「ホスピタリティ」という点では、看護ととても共通するところがあるということ。どちらも「癒やし」という部分での関わりができるので。今、コロナでソーシャルディスタンスを保ったおもてなしはすごく難しくて試行錯誤ですけどね。うちの旅館のモットーに「ナンバーワンじゃなくてオンリーワンを目指す」というのがあるんですね。その精神を引き継いで、六峰舘に来ると落ち着けるわと言っていただけるようなおもてなしをしていきたいな、というのは思いますね。
湧永:お二方ともすごい!さすが看護出身の方は違いますね。すごいホスピタリティにあふれて。根っこから違う気がします。
山上:人の役に立ちたいという意志の力が素晴らしい!
杉本:そう感じられたとしたらきっと教育のせいですね。学校がそうだったんでしょうね。先生方、看護にも慶應にも、すごく誇りと情熱をもって教えていらしたから。
井上:そこで植え付けられている。
山上:もちろん元々のお人柄もあると思うんですけど、そういう環境で育ってきたというところで、人の役に立つということに喜びと誇りを感じているというのをすごく感じますね。
湧永:どうもありがとうございます。最後の締めとして、同期に向けて一言ずつお願いできればと。杉本さんからお願いできますでしょうか?
杉本:短大を卒業するときに「25年経ったら名簿が云々」というお話があって。当時はさらっと聞き流していたんですけど、それがこんな大きな楽しいことに繋がって。今こうやってみんなと連絡が取れるのが、たとえリモートでもすごく嬉しいなと思っているし、みんながいろいろなところで活躍しているというのが私にとってもすごく励みになっているので、この繋がりをまた、30年、50年と大事にしたいなと思っています。
井上:私も福岡にいて、普段はみんなとのやりとりはLINEを通じてという感じなんです。今は遠くてもリモートで会えるというか、みんなから遠いところにいる私にとってはすごくプラスのこともいっぱいあって。本当にこの25周年ですごくいいきっかけをいただいて、またあの頃のことを思い出したり、みんなに会いたいなとか、そういう繋がりが今でも続いていることがすごく幸せだなと。今からコロナを乗り越えた後の再会に繋げていけるといいなと思います。
湧永:どうもありがとうございました。
山上:どうもありがとうございました。