私の履歴書 シリーズ14:河野 貴輝 株式会社ティーケーピー 代表取締役社長:多くの経験とSpeed is Value思考で株式会社ティーケーピー設立「やりながら、走りながら考えよう」

河野 貴輝(かわの たかてる)

株式会社ティーケーピー創業者・代表取締役社長

1972年、大分県生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、伊藤忠商事株式会社為替証券部入社。日本オンライン証券(現auカブコム証券株式会社)設立に参画、イーバンク銀行株式会社(現楽天銀行株式会社)執行役員営業本部長等を歴任、ITと金融の融合事業を手がける。2005年8月、企業向け空間シェアリングビジネスの先駆けとして、株式会社ティーケーピーを設立、代表取締役社長へ就任。2017年3月に東証マザーズ市場へ上場。2017年には起業家のための表彰制度「EY Entrepreneur Of The Year 2017 Japan」にて大賞受賞。日本代表に選出され、世界大会出場。2019年にレンタルオフィス世界最大手IWGのリージャス日本法人・台湾法人を買収し、フレキシブルオフィス事業の日本最大手企業に成長させ、現在に至る。

(インタビューアー 五十嵐 幹)


理科が大好きだった幼少期、中学でアマチュア無線の免許取得

五十嵐:まずは慶應大学に入学されるまでですが、どんな幼少期を過ごされましたか?

河野:私は大分県出身で、サラリーマンの家庭で生まれました。祖父が別府で事業をしておりまして、子どものときから祖父について行って海の家の店番などを手伝っている中で、“商売というのは面白いな”というのを実感したのが私の商いの道の第一印象です。幼少期は理科が好きで、家でも実験を繰り返しやっていました。小学校4年生のとき、初めてアルバイトをして買ったのが試験管やビーカーでした。

五十嵐:小学生でアルバイトをされていたんですか?

河野:子どもがプール視察を体験するというアルバイトで、小遣い5,000円をもらったんです。中学生になってからはアマチュア無線に夢中になりました。今だとみんな携帯電話を持っていますけど当時はありませんでしたので、僕は自転車に車のバッテリーを入れてハンディカムを置いて、大きなアンテナを立てて、広島の人や四国の人と大分の山の上から交信したりしていました。普通アマチュア無線の周波数は一つなのですが、僕は二つの周波数を使って交互に会話できる無線を作るなど、実践・創造することが日常になっていました。

五十嵐:中学理科の授業ではそこまで習わないですよね。

河野:全く習わないですね。

五十嵐:どのように情報収集をされていたんですか?

河野:「ラジオの技術」という月刊誌がありまして、その月刊誌を毎月読んでました。半導体などのパーツを自分で買ってラジオを作って、それを分解してまた作り直す。トランシーバー等の仕組みも勉強しましたし、とにかく自分で分解するのが得意でした。

五十嵐:当時、東京だと秋葉原のラジオ会館にそのようなジャンルのいろいろな部品が販売されていたと思うんですが、大分県では調達はできたんですか?

河野:あるんですよ。プラモデルを売っているお店があって、そこに半導体やはんだごて、何でも売っていました。船で大阪まで行って買うときもありました。

高校で数学オリンピック出場も文転、商学部からビジネスの世界へ

河野:そんな時代を過ごして、高校では校内の弁論大会で優勝して県大会に出場しました。また数学が得意だったので数学オリンピックに出させてもらったりもしていました。国立大学を狙っていたんですが、現役がダメで浪人して、河合塾福岡校の東大クラスで東大・京大の5教科7科目の勉強をしていました。私立大学も受けようということになり、一番得意だった数学の試験がある慶應の商学部を受けて合格しました。私立に行くなら慶應と決めていたんです。

五十嵐:慶應の理工は受けなかったんですか?

河野:文転したんです。家の近くに大分医科大学があって親に医学部に行けと言われていたんですが、僕は血を見るのが嫌だったので医者にはなりたくない、僕は弁護士になりたいんだと言って、理系に行かずに文系に行きました。ただ、法学部に落ちたら弁護士になるのをやめようと思っていました。そもそも慶應の法学部は数学試験がなかったので、商学部でビジネスの世界にいくことになりました。

五十嵐:東京に出られた当時は、大分県から離れることについてどういう心境だったんでしょうか?

河野:大分から出たいという気持ちはありましたね。でも、大分から出て東京に行ったら、親戚もいなければ知り合いもいない、という不安はありました。それでも、もし何かあったら大分に帰ればいいというセーフティネットがあったからこそ、東京で頑張ろうという気になったんだと思いますね。

掛け持ちアルバイトにフィンランド留学、株式投資や厳しい財務会計ゼミ 多くの経験を積んだ慶応大学時代

五十嵐:上京されて、初めはどちらにお住まいになったんですか?

河野:日吉です。最初は三田に物件を探しに行ったんですが、家賃が高いんですよ。その後日吉に物件を探しに行って、古いアパートを借りてそこに4年間住んでいました。

五十嵐:日吉の生活が馴染んで4年間いらっしゃったんですか?皆さん1、2年生は日吉の近くにいますけど、3、4年生は校舎が三田なので引っ越しされる方が多いですよね。

河野:横浜駅で塾講師のアルバイトをしていて、日吉からだと行きやすかったのでそのまま日吉にいました。時給3,000円もらえていたんです。奨学金をもらいながら塾講師のアルバイトをして、他にも3カ月ぐらいのタームで様々なアルバイトをしていました。とにかく社会経験を積むという命題を立てていたので、お金稼ぎのアルバイトと並行して社会経験を積むアルバイトもする。授業にも行きますが、多くの時間をアルバイトに費やしていました。

五十嵐:サークルは入られていたんですか?

河野:福利厚生機関の国際関係会(I.I.R.)に入っていました。慶應で交換留学生を受け入れ、また全塾生に対し国際交流の機会を提供しているサークルです。私もフィンランドのヘルシンキ経済大学に交換留学で夏休みの間行きました。本当に楽しかったです。ノキアに行ったり、湖やサウナに行って国際交流を図っていました。英語ではなくフィンランド語でしたね。フィンランドは英語が母国語ではないので、現地の学生も片言で英語を話します。国が違ってもちゃんとボディランゲージで話せるんだ、という原体験をここでしました。

五十嵐:やはり当時から留学しようという気持ちがあったんですね。

河野:そうですね。東京に初めて出てきたとき、東京の次は海外だろうという留学に対する憧れみたいなものはありました。

五十嵐:学生時代は起業に向けてアルバイト中心の生活をされていたということですが、起業についてはどれくらい真剣に考えていらっしゃったんですか?

河野:大学1年生の夏ぐらいから株式投資を始めました。当時日吉に証券会社がなかったので綱島の日産証券まで行って入り浸っていました。その後、大和証券渋谷支店と、今はないんですが野村證券三田支店が田町の駅前にあって、当時はインターネットがなく、株価が分からないので、そこにとにかく入り浸って株価ボードとクイックという端末を操作していました。株式投資に熱中して、毎月稼ぐ20~30万円の給料は全部株にあてました。当時はそれぐらいのお金しかないから、5円の株を10万株、50万円とか買っていました。それが将来ネット証券を作ることにつながりました。ただ、いくら買っても赤字で、どうしても損がでる。日経平均が3万円から落ちていく時代だったじゃないですか。

五十嵐:そうですね、バブル崩壊ですからね。

河野:日経平均2万8,000円から株を始めて、どんどん下がっていくわけです。1万4,000円まで下がっていって、学生時代に破産しかけました。

五十嵐:大学時代は、通算負けということですか?

河野:多分300万円ぐらいの負けです。アルバイトを頑張った分ほとんど株で負けました。極めつけは、お金を払ったら上がる株を教えてくれるという話を信じてしまい騙されまして。そこでちゃんと勉強しなきゃと思い、商学部でもしっかりしたゼミに入ろうということでガチガチの財務会計のゼミに入ったんです。厳しいゼミで、3日間合宿があったら全日寝ずに勉強するんです。それなのに、隣のゼミは遊んでいるんですよ。男女ともに仲良く遊んでいるゼミがありながら、僕のところは男しかいなくて。

五十嵐:男性のみですか。

河野:そう。3日間寝ずに先生と和室で正座しながら勉強するというのを体験しまして、修業の日々でした。

五十嵐:ゼミ選びって下馬評がありますよね。そのときは厳しいゼミという認識はなかったんですか?

河野:再開ゼミでわからなかったんです。先生が海外に留学していて、新設ゼミと同じような扱いだったので。

五十嵐:なるほど、情報がなかったんですね。

河野:はい。財務会計、阪和興業のキーワードがあって、「財テク失敗、その会計処理は?」というように書かれていて、株好きの私としてはその言葉に反応しちゃったんですね。五十嵐さんはどちらの学部ですか?

五十嵐:私、経済学部です。当時加藤寛先生がいた時代でしたっけ?

河野:そうですね。当時、島田晴雄先生、村田昭治先生が全盛期でしたね。

五十嵐:商学部ですね、愛のマーケティング。

河野:そうそう、村田ゼミとか楽しそうにやっていて。やはりそういうのは調査不足ですね。村田ゼミはマーケティングでしたから。何だか勘違いして(財務会計のゼミに)入っちゃいました。一般の会社には就職しないという人ばかりで、みんな公認会計士の勉強をしていたんです。今考えると本当にすごいゼミにいました。

五十嵐:株式投資されていたということで、当時からお金のやり取りは嫌いではなかったと思います。「ひようら」には雀荘がいっぱいありましたが、日吉に住んでいた頃、麻雀はされていましたか?

河野:三田の三色に行っていましたね。よくそこでペヤングを食べていました。

五十嵐:証券投資が好きなのと麻雀が好きというのは、戦略という意味で比較的近いところにあるんでしょうか。

河野:僕はリーチ一発ツモドラドラ、運で勝負していたので戦略というのはなかったですね。とにかく夜中のペヤングがおいしいということだけは覚えていますね。

五十嵐:わかります。大体僕らもER3にいて、ペヤング卵入りを食べてましたね。懐かしいですね。

河野:懐かしいですね。日吉はこの前も久々に行きましたけど、変わりましたね。当時は居酒屋VONというところがあって、そこでも僕はアルバイトしていたんですが、慶應の学生だらけでしたね。僕たちのサークルのたまり場にもなっていました。今はドイツレストランになっていて、今でもそこに行ってみんなで会ったりしています。

五十嵐:もう今は日吉記念館もできていますし、だいぶ変わっていますね。

河野:東急百貨店もなかったですからね。そんな感じで、僕の慶應の歴史はずっと日吉です。

五十嵐:今、株式会社ティケーピー(以下、TKP)を起業して大成功されていますが、慶應大学時代を振り返って、慶応の良さや得たもの、そういったものはいかがでしょうか?

河野:慶応というブランドのようなものを当時最初に感じました。社会人になってからもそうですし学生時代もそうでしたね。あとは福沢諭吉先生だけが先生だと教えられて、先生を「何々君」と言うのは本当に面白い考え方でした。昔ながらの授業でしたが慶應に行くこと自体誇りでした。でも結局、思い出って何だろうと考えると、やはり苦しかったゼミと自由な校風、あとは文武両道です。泳げなかったので無理やり水泳をさせられましたが。

五十嵐:体育の授業ですか?

河野:はい。シーズンスポーツってあったでしょう?シースポでみんなが野球とか楽しいことをやっているとき、僕は水泳で1,000メートルを泳いでいました。ここは高校かよ!と思いましたけど。当時は高校みたいでしたよね。

五十嵐:校風は確かにそうでしたね。

河野:剣道もやりましたね。

五十嵐:選択じゃなかったですか?

河野:確か剣道と柔道の選択だったんです。

五十嵐:多分選ばれたものが、ことごとく外れているような気がしますね。ネット時代の前なので、基本的には口コミでしか情報はわからないですもんね。

河野:そうなんですよね、口コミでした。今となってはマクロ経済もミクロ経済ももっと真面目に勉強していたらよかったかなと思います。需要と供給グラフぐらいしか覚えていないんですよ。

五十嵐:それはおそらく多くの人が一緒だと思います。僕も経済学部にいましたけど、覚えていることはそんなにないですもんね。社会人になってから使える学問というより、その校風だったり仲間だったり、ある面今のよき時代としての無駄とも言える時間を通じての社会体験というのが非常によかったんじゃないかなと思います。

河野:そういう意味では僕の入ったゼミがあまりにもストイックだったこともあって、みんなとの関係はとても深くなり、未だに定期的に会うゼミ生もいます。サークルも交流が続いているので、学生時代のネットワークがあるというのは慶應のいいところだと思います。あと卒業して思ったことは、慶應の三田会のような先輩たちのつながりが凄いですよね。慶應なので仲良くしていただけるというのはありました。

五十嵐:私も先輩に助けられたことはいっぱいあります。君は慶應か、というだけで信用してもらえることがありますので、そういう面では同期だけではなく、先輩後輩も含めて面倒見がいい大学のような気がしますね。

河野:そうですね、確かに面倒見はいいですね。

五十嵐:今でもずっと先輩は先輩ですからね、付き合いが終わらないというか。

伊藤忠へ就職 事業成功の3原則は「信用力、資金調達力、ブランド力」

五十嵐:いろんな軌跡があって面白いですね。そのような大学生活を乗り越えて、伊藤忠に入られましたが、数ある商社の中から伊藤忠を選ばれた理由は何ですか?

河野:僕は商社に行きたかったわけではなくて、証券会社に行きたかったんです。就職活動の中で、伊藤忠が「君はトップ内定だ」と言って一番最初に内定をくれたんです。目的別採用で為替証券部で採用すると。「証券会社に行っても、最初の配属先がどこになるのか分からない。伊藤忠は君の能力を慮って為替証券部に入れる。君はもう2年目からニューヨークかシンガポールかロンドンに行ける」と説得されて、迷いなく伊藤忠に行きました。その結果、カブドットコム証券を作ることになるわけですね。

五十嵐:面白いですよね、そこからベンチャー系のほうに入っていくというのは、当時のSFCからのネット事業と流れと一緒ですね。

河野:確かにそうですね。本当に伊藤忠っていい会社で、自由にいろいろなことをやらせてくれました。カブドットコム証券を辞めた後も、イーバンク銀行、その後TKPを作る際には出資をしてくれましたし、今でも伊藤忠の元社長の小林栄三さんと時々会ったり、伊藤忠で取締役副会長をやられていた方にTKPの社外取締役をやっていただいたり、人的交流もあります。伊藤忠の新人研修・課長研修を、私が指名されてやることもあります。懐が深いんです。辞めた人間がこんなに頑張っているというのを内定者に言うわけですよ。君たちは伊藤忠に入っても、ここだけがキャリアじゃないんだよ、辞めてもこういう世界があるんだよ、というのを見せる。なかなかすごいなと思いますね。

五十嵐:やっぱりそこは商人商社ということはありますね。

河野:伊藤忠からは商人商社のあり方を教えてもらいましたね。あとは、勝てるケンカしか仕掛けるな、小さく生んで大きく育てろ、お金掛けずに商売しろ、ということも言われました。

五十嵐:関西商人っていう感じですよね。

河野:ケンカを仕掛けるときは勝てるケンカしか仕掛けるな、ですからね。入社してすぐ上司から言われました。

五十嵐:そういう意味ではカルチャーが徹底されている会社なんでしょうね。

河野:そうでしょうね。伊藤忠って資金力と、そのブランド力を使い、絶対勝つ事業にだけ投資するというのがスタンスなんですよ。だから長く商社が続くはずですよね。会社がどんどん大きくなればなるほど、信用力が高まれば高まるほど失敗しなくなるんだなと。僕は、事業で成功する三原則は、信用力、資金調達力、ブランド力であるということを伊藤忠から学びました。

五十嵐:そういう面では今のビジネスの自分自身の行動指針というのは商社時代に作られたものが大きいですか?

河野:いえ、まず慶應大学時代です。大学に入りながらアルバイトと株式投資をたくさんしたという社会経験がまず土台にあって、金融の勉強をしようと思い伊藤忠へ行きました。その後はネットベンチャーとの出会いがあってカブドットコム証券を作ることで、僕は金融とベンチャーを勉強できて、TKPにつながったんだと思います。

株式会社ティーケーピー設立

五十嵐:カブドットコム証券からイーバンク銀行、その後TKPを作られるわけなんですが、TKPの軍資金はどのくらいだったんでしょうか?

河野:僕はわらしべ長者で、イーバンク作ったときに300万円だけ株を入れています。そのイーバンクが、僕が辞めるときに10倍の3,000万円になって、その3,000万円で作ったのがTKPです。

五十嵐:仲間はいらっしゃったんですか?

河野:当時1人いました。僕より一回りぐらい上の方です。イーバンク銀行時代に付き合いのあった会社の役員の方なんですが、会社を作って6年目で膵臓がんで亡くなってしまったんです。最初は、彼は彼のビジネス、私は私のビジネスを合わせて一緒に起業しようとしていました。私は取り壊しの決まっているビルを会議室にするというビジネス、一方彼はいわゆるコンサルティング的なビジネスを。5割5割で会社を作ろうとしていたんです。結果として僕の会議室ビジネスのほうが上手くいったので、8割は僕、2割は彼が持って会社をはじめました。会議室運営の手伝いをしてもらっていたのですが、その後彼はCFO的な金融まわりを担当していました。

五十嵐:TKPの社名の由来は、河野さんのイニシャルだという話ですけれども、そういう面では初めから今の事業以外にもいろいろなことをやろうという前提で作られたということですか?

河野:タカテルカワノパートナーズですから、河野貴輝とそのお友達という名前です。会議室だけでなく、他のビジネスに展開したいなと考えていました。

五十嵐:TKPは非常に順調に成長されている企業だと思うのですが、一番苦労された点はどんなことでしょうか?

河野:小さく生んで大きく育てていったので、毎日がドラゴンクエスト状態。問題は起きるけど常にアドベンチャーをしている感じで楽しかったです。どんどん大きくなっていきましたし、コロナの前までは1回も赤字になったことがありませんからね。リーマンショックや東日本大震災で業績が落ちたこともありましたが、すぐ対策を打って取り返しました。そういう意味では、苦労はそんなにせずに大きくしてきた感じですかね。仕組みがちゃんとしていましたね。

五十嵐:ビジネスモデルは思い込みで始めないほうがいいんじゃないか、ということにもつながると思いますが、現場で試してみないとわからない部分ってありますよね。そういうものは伊藤忠、カブドットコム証券、イーバンク銀行、その時々の全ての体験の結果なんでしょうか?

河野:伊藤忠にいた当時、フィジビリティースタディーをたくさんやっていて、時間を逸してスピードが落ちたんです。僕は自分のやり方は絶対間違いないのにと直感で思っていて、上司の言うことを聞いていたら絶対失敗するって思っていたんです。自分で決めたかった。なので、自分がオーナーになって、自分が意思決定できるようにしたいと思いTKPを始めました。そういう意味では、Speed is Value、スピード重視です。あまりフィジビリティースタディーをいっぱいやって、検討した結果これを選ぶということはやってこずに、やりながら、走りながら考えようで、どんどん修正してきたのが今のTKPです。

五十嵐:そういう過程の中で、TKP時代において、慶應大学出身者からいろいろなかたちでの力を得られたような部分はあるんですか?

河野:慶應出身者という方はいっぱいいましたから、そういう方々と会うとホッとしました。昔は「伊藤忠の河野です」と言っていましたが、伊藤忠をやめた後、「出身大学どこですか?慶應ですか、僕も慶應です」と。こういった流れで急速に近くなった経営者はたくさんいますから、やはり慶應でよかったなと思います。

上品でいてチャレンジ精神もある、慶應生のバランス感

五十嵐:卒業して25年ぐらい経って、皆さん40代後半を迎えているわけなんですが、どんなところが一番慶應の本質だな、と思われますか?例えば僕は、独立自尊、あとは自我作古という言葉や、福沢諭吉ならではの考え方は非常に起業家に向いていると思うのですが。

河野:そうですね、やっぱりチャレンジが自由にできるところですね。固すぎず、かといってアウトローでもない。他の大学に行くと立て看板をよく目にしますが、そういうものもないですし、やっぱり上品ですしね。いいものを持っていながらチャレンジ精神もある、主流でありながらチャレンジもできる、そんな感じかな。

五十嵐:そうですよね。結局慶應生ってバランス感がいいんでしょうね。

河野:そう、バランス感ですよ。今考えると本当にいい人たちに囲まれていたんだなと思いますね。

五十嵐:振り返るとやはり慶應に入られてよかったな、ということなんですね。

河野:国立じゃなくてよかったなと今だに思っています。頭でっかちの固い弁護士になっていたかもしれないし。もしなるなら頭の柔らかい弁護士がいいですね。

五十嵐:柔軟性があって、エスタブリッシュなバックグラウンドを持ちながら、新しいことにチャレンジできる、ということが自然にできたということなんでしょうか。

河野:ありがとうございます。完璧にまとめていただきましたね。

「今が全てじゃない、今は未来への礎である」

五十嵐:それでは最後の質問になりますが、こういう局面を迎えていて、僕らも25周年をやりながら非常に苦労しているわけなんですが、大学の同期にエールを送るとしたらどんな言葉を投げかけたいですか?

河野:人生大変なことがいっぱいあって、今回のコロナもすごく大変な出来事なんですが、人生は長い目で見てほしいなと。昔、ナイアガラの滝を見に行ったことがあります。1日目に船で行ったんですが、すごい嵐で船がもの凄く揺れるわけです。もう台風のど真ん中のような、いつ転覆するかわからない状況でした。2日目に今度はヘリコプターでそこを上から見ると、川がゆっくり流れていました。。ストンと滝ができていて、また緩やかに川が流れているんですよね。だから人生というのは単視眼的ではなく、もっと長期的なバランスを見た経営をしていかないとダメなんだな、人生設計もそうしていかなければいけないんだと感じました。要は、今が全てじゃないと。今は未来への礎である。今が良い状況の会社も、悪い状況の会社もあるでしょうけども、自分にとって大事なものをぜひ守って、新しい世界を作り出していってほしいなと思います。

ラーメン二郎 三田本店

五十嵐:これが本当の最後の質問なんですが、ラーメン二郎は好きですか?

河野:ラーメン二郎好きですよ。ただお腹いっぱいになって、残すと怒られてしまいますが。ラーメン二郎を好きになって、家系ラーメンも好きになっていきました。元々とんこつラーメンしか食べない人がしょうゆラーメンを食べるという。ラーメン二郎のおかげで東京のラーメンはおいしいなと思いました。もやしが好きになりましたね。

五十嵐:河野さん的にイチオシのラーメン二郎の店舗はどこになりますか?

河野:それは勿論、慶應の横の。

五十嵐:本店ですね。

河野:ほかのところと味が違いますもん。

五十嵐:今でも定期的に行かれている感じですか?

河野:並んでなければ、時々行きますよ。

五十嵐:そうですね。いつもすごく並んでますもんね。ラーメン二郎も大好きだということで、慶応生の本質だということですね。笑

今日はお時間いただきまして、ありがとうございました。