私の履歴書 シリーズ3  北山 陽一(ゴスペラーズ) :“プログラミングをやってみたい”一心でSFCへ。通学に往復6時間。それでも楽しかった半サバイバル生活

(インタビューアー:五十嵐 幹(いがらし みき))

北山 陽一(きたやま よういち)
ミュージシャン

1974年2月24日生まれ、青森県八戸市出身。慶應義塾大学環境情報学部卒

1994年12月、男性ヴォーカルグループ ゴスペラーズのメンバーとしてシングル「Promise」でメジャーデビュー。

以降、「永遠に」「ひとり」「星屑の街」「ミモザ」など、数々のヒット曲を送り出す。 2019年にメジャーデビュー25周年を迎え、2021年3月10日に18年ぶりとなるアカペラのみで構成されたオリジナルアルバム「アカペラ2」をリリース。

“プログラミングをやってみたい”一心でSFCへ。通学に往復6時間。それでも楽しかった半サバイバル生活

五十嵐:まず初めに、同級生としての視点で自己紹介をしていただけますか?

北山:はい。僕は92年に慶應義塾大学環境情報学部(湘南藤沢キャンパス)に入学、98年に卒業しました。放塾(中退)の危機を、後輩の力を借りてギリギリ卒業はできた、というところです。のちに話しますが、研究室でもある種甘やかされていた部分があって、卒論を書かずに出てしまって。

五十嵐:本当ですか?

北山:はい。これ、言ってよかったのかわからないですが、もう時効かな。それと、これも今から言うのはちょっと怖いんですが、実は今年の5月にSFC(湘南藤沢キャンパス)の大学院を受験するんです。卒論を書いていないのはおかしいだろうと思って。代わりと言っちゃあ何ですが、50歳までに修論を書くのが今の目標です。

北山:94年の在学中にゴスペラーズに加入して、その年のうちにメジャーデビューが決まったので、グループの活動を本格的にしていました。94年の春学期は20単位申請して18単位だったんですけど、秋学期は20単位申請で2単位という感じになり、その後も全く単位がとれず。グループもなかなか結果は出なかったんですが、本気だったし、面白いからひとまず続けてみて、ダメなら学校戻ればいいやと。

 19~20歳の頃、僕は根拠のない自信に満ち溢れていたので「僕には能力があるから、ゴスペラーズで行き詰まったら研究室でまた拾い直してもらえばいいや」と甘く考えていたんです。それがいつの間にか本気で歌うようになり、ヒットソングにも恵まれたので、それからは、「歌って何だろう?」「ハーモニーって何だろう?」みたいなことを考えながら、27年目の今もゴスペラーズの一員として過ごしています。ですので本来は96年に卒業した人たちと同期ですが、実際の卒業が98年ということですね。

 自己紹介としてはそんな感じです。もともと歌が好きだったのではなくて、大学生時代はプログラミングにどハマりしていました。1年生の秋学期にC言語を習い始めた流れで、11月ぐらいには御茶ノ水にあるシステムハウスでプログラミングのバイトをしていました。当時SFCには”オミクロン18″という、ワークステーション(コンピュータ)がたくさん並んで24時間空いている特別教室があったんですけど、そこに入り浸りずっとプログラミングしていました。それと、アルティメット(フライングディスクを使った競技)のサークルにも入っていいたので、慶應時代の初めの頃はほぼ、グラウンドでフライングディスクを投げているか、オミクロン18でプログラミングしているかで、あまり授業には顔を出さない、そんな感じでした。

 そういう学生だったのが、いつの間にか歌うことになり、現在に至ります。

五十嵐:そうなんですね。北山さんの略歴をネットで拝見したのですが、音楽一家のようだったのでその流れかなと思っていました。

北山:確かに身内には音楽関係者がいますが、クラシック方面が多いんです。デビュー前は人前で歌を歌うような感じは皆無の人間でした。学校ではあまりにいつも同じ場所にいるので、そのうち全然知らない学生さんに、「プログラミング詳しい人ですよね?課題でちょっと聞きたいことあるんですけど」と言われて、普通に、「ああ、いいですよ」って。「それは、それを僕にやってほしいですか?それともできるようになるために教えてほしいですか?」って。一学期に数十人をお手伝いしたこともありました。それがだいぶ自分の実になっていて。教えるというか、伝えようとすると、自分の中に知識として理解を溜めていかなければいけないから、すごく勉強になるんですよね。

五十嵐:当時、僕のSFCの友達が徐々にネットビジネスを立ち上げているような時期だったので、アルバイトの時給が高くてうらやましいなと思っていたんです。

北山:それわかります。嘘だろ?みたいな時給で働いてる人がいて。でも僕はその世界とはちょっと違って、最初の1、2年はあまり研究会に出入りしていなかったので、そういう紹介も受けられず、ネットで調べて。

五十嵐:自分で申し込まれたんですか?

北山:そうなんです。しかも始めて1カ月位だったのでどうかなと思っていたんですけど、書いてみたらOKが出て。時給1,500円でした。一般的なバイトとしてはちょっと高いかな、ぐらいだったと思います。政府の仕事の下請けの下請けの……みたいなこともやっていたんですが、そのうちプログラミング自体にのめり込みすぎてしまって。当時出退勤申告はタイムカードだったから御茶ノ水の職場に行って打刻機に通す必要があったけれど、データを持って帰って学校でやるようになり。そうすると打刻しないから時給出ないじゃないですか。だからほとんど無休で働いているみたいな時期もありました。

五十嵐:本当にハマってしまった感じですね。

北山:そうですね。だから自分としてもおそらく周りとしても、この人はプログラミングの職に就くんだろうなと。僕としてはあわよくば研究室に残りたいなと。インターフェースに興味があったので、人間とコンピュータの間にある何かそういうものをやる人になりたいな、とずっと思っていたんです。

五十嵐:その話はネットにも記事としては全然出ていないことですね。

北山:そうですね。せっかくならそういう話がいいかなと思って。

五十嵐:ちょっと履歴を遡らせてください。八戸高等学校出身ということですが、八戸から遠くのSFCに行こうというのは、結構勇気が要ったと思うんです。僕は付属校からなので、SFCに1回見学に行った時は、ここちょっと遠いな、と思ったぐらいなので。どういう理由で決めたのでしょうか?

北山:僕、小学校が歩いて3分だったんです。中学校は歩いて20分で、その途中に八戸高校があり徒歩圏の学校にしか通ったことがなかったので、公共交通機関を使って通学する感覚がまずわかっていなかったというのが一つ。それと、慶應の当時の案内図は、山手線が丸く球のように線が引いてあって、そこからにょろにょろと線をつなげて藤沢と書かれていて。田舎者の僕には、それがすごく近くに見えたんです。

 だから東京に行く気分で行けばなんとかなるだろうと思っていたら、家庭の事情で一緒に住む予定の妹が先に東京に出て住む場所を選んでしまって、それが荒川区だったんです。

五十嵐:だいぶ遠いですよね。

北山:そうなんです。でも分かれて暮らすほどの財力がなかったので、片道3時間、だから往復6時間。

五十嵐:通っていたんですか?

北山:通うということになっていました。でも途中から面倒になって、大きなスポーツドラムバッグに1週間分の衣類や教科書を入れて、学校へ行って、シャワールームで風呂に入って。

五十嵐:じゃあ学校に住んでいたような感じですね。

北山:ホームレスですよね、今考えると。

五十嵐:SFCは当時そういう学生が多かったですよね。

北山:そうですね。結構いました。課題が立て込んでいないのに住んでいるみたいなときもあったので。だから、勇気があったと言うよりは、八戸にいて情報が少なかったから選べた、と言えるかもしれないです。それと、コンピュータを買い与えられなかったんですね。買うのも禁止だったんです、高校生まで。それは、目が悪くなるからとか、僕がこういう体質なのでハマらせてはいけない、そんな親の思いで。中学のときに親戚の家で、ベーシックというプログラミング言語に初めて触れてハマってしまい、三日三晩寝ずに続けて色々出来るようになったんですが、その3日間で視力が2.0から0.3まで落ちて。それで母が激怒して、コンピュータは絶対ダメとなった。でも、SFCでは必修なので必ずパソコンに触れられる。最大の志望理由でした。

五十嵐:プログラミングがどうしてもやりたかったわけですね。

北山:そうなんです。うちは父親が五十嵐さんと一緒で慶應の経済を卒業していて、ある種の親孝行として慶應を志望するというのもあったんですが、SFCを知ってからはもう一択でしたね。

五十嵐:そのあと、湘南台界隈に家を借りられたんですか?

北山:最後まで借りなかったんです。

五十嵐:すごいですね、それは。

北山:経済的な理由も多少あったかなと思いますけど、僕は、環境が一度決まってしまうと、不便だったり嫌だったりしても、そこから逃げるとか抜本的に変えようというのがあまり浮かばないタイプの人間で。最近はそうでもないですが、特に若い頃は、多分すごく自信があったんだと思います。その自信というのは、生きる自信というんですかね、環境に適応できる自信というか。

五十嵐:サバイバルのような生活ですよね。

北山:そうですね。いわゆるQOL(生活の質)的なことを言うと、飯もあまり食べなかった。当時のSFCは夜中の環境が非常に不便でした。コンビニも相当歩かないとなかったので、プログラミングしていて夜の2時ぐらいに小腹が減ってもそこから往復1時間歩きたくないじゃないですか。なので、キャンパス内だと昔ながらのカップヌードルの自販機しかない、買ってみたら箸がないとか。そういうサバイバルで、それも楽しかったんですよね。そういうのがダメなタイプではなかったから、続いたというのはあるかもしれないです。

五十嵐:当時のSFCの環境は、新設の学部でもありましたし、まだ校舎も作っている最中だったりインフラ面も整っていなかったということもあって、たくましい人が結構多いですよね。ネットビジネスに進出していった人も多いですし。

北山:そうですね、開拓者が多いようなイメージありますね。そのイメージが独り歩きして、逆にSFCの卒業生は煙たがられるみたいな現象が起きていくわけですけど。今の日本にあまりいないタイプの人たちがたくさんいるような、そういう場所ってあまりなかったと思うので。教育方針や環境に整っていない部分があったから、という話をすると当時の先生たちに怒られそうですけど、でもそういう部分も、自分たちも一緒に構築していくんだという、そんな雰囲気はあったと思います。

メディアセンターで早大サークルと運命の出会い。急転直下、ミュージシャン人生が動き出す

五十嵐:次の質問ですが、大学に入られて、アルティメットサークルであるとか、プログラミングをされていたということなんですけど、そもそも歌うことに関してはどうされていたんですか?

北山:子供時代から大学まで、歌うこと自体はもともと好きではなく、人前で歌うことは殆どありませんでした。ピアノやブラバンはやっていたので、カラオケに行って、初めて聞いた曲で2番からハモるようなことはできたんですけど、人前で歌いたいとか一切思ったことはないタイプでした。何故歌い始めたかというと、ハモりたかったんです。テイク6(アメリカのコーラスグループ)のアカペラ曲を高校のときに初めて聞いて、こういう音楽は人の声でしかできないので、じゃあ僕も歌わなきゃな、という気持ちになったんですよ。楽器として自分の声が必要だった、というイメージ。でも、当時アカペラって言ったら「赤いペラ?なに?」と言われてしまうような認知度だったので、まず誰も知らないんですよね。そんな状況で仲間を口説かなければいけないところから始まるのが辛くて。仲間がなかなかいなかったですね。

 それで、大学入学当時、東京に来たのだからそういうことをやっている人たちに会えるだろうと思って探したんですが、大抵行き着く先が合唱サークルなんですね。楽しいんだけど、俺はこれじゃない、と思って入らなかったんです。それで、アルティメットのハスキーズに入りました。そういう意味では、ずっと迷子だったんですよね。そんな中、94年始まった頃、メディアセンターという図書館のような場所のビデオ編集ブースで、アカペラグループの動画を編集している人がいたんです。合唱ではなくて。そこは共有スペースの一部で、タダで編集できるんですけど、編集内容は周りから見えてしまうような場所でした。

 これは明らかに素人のアカペラだ!と確信した僕は肩をトントンと叩いて、「これ、アカペラですよね?何ですか?SFCにはないですよね?」って言ったら、実はこれは早稲田のサークルで、自分はそのサークルに入っていて歌っているんです、という話でした。それがきっかけで、早稲田のサークルに入ったのが、94年の3月です。

五十嵐:SFCの同級生が先に入っていたということなんですか?

北山:そうなんです。その人は僕みたいな田舎者ではなかったので、慶應に入ったけれど早稲田にそういうサークルがあるのを知っていて、入っていました。出会うまで2年近くかかりましたが、それを知ったことで、僕も3年になる直前にサークルに入ったんです。

五十嵐:当時SFCとか、慶應大学全体としてもアカペラサークルってなかったんでしょうか?

北山:なかったですね。いわゆるアカペラサークルというのが、全国に早稲田のStreet Corner Symphonyしかない、という感じでした。あちこちにグループ単体としてはありましたが、サークルではなくて。その後、僕と同じ学年の友達が、K.O.E.という、慶應で一番古いアカペラサークルを作ったのがそのちょっとあとかな、という感じです。それはスーパーバイザーとして協力しましたが、お前は早稲田なのか慶應なのか、というようなことはあちこちから未だに言われますね。

五十嵐:なかなか慶應の学生が早稲田にアクセスしないですもんね。

北山:そうなんですよ。一番の思い出は、150周年のイベントで、ダークダックス(慶應義塾大学出身のボーカルグループ)の皆さんとご一緒させていただいたときがあったんです。三田会だったかな?

五十嵐:連合三田会ですかね。

北山:ダークダックスは4人グループなんですが、当時そのお一人がご病気で出演できなくなってしまっていたんですね。それで僕が代役として誘っていただけた感じだったんですけど。本番前楽屋に伺ったときのことをとてもよく覚えています。ドアをガチャっと開けて、「はじめまして、ゴスペラーズの北山といいます」と言ったら、「君か、あの下品な大学の連中とつるんでいるのは」と。歴史あるいじりがすごく感慨深かったです。慶早の話ではそれが一番の思い出ですね。

五十嵐:その早稲田のサークルには、すぐ入部されたんですか?

北山:はい。94年3月に入って、94年6月にゴスペラーズに加入しました。そこからはもう歌い始めた途端に急転直下で、サークルに入ってから10カ月後にメジャーデビューしているので。なんかいまだによくわからないです、そんなことなかなかないので。

五十嵐:一般的に94年だと、そろそろ就職活動始めようかな、という時期ですね。

北山:そうですね。でも僕、いろいろネットでご覧になったらわかるかもしれないですけど、スペック的にも性格的にも社会適合者とは言いかねる感じなので、会社に雇用されるスタイルは多分合わないだろうなと。フリーランスか起業かと思いつつも、一番合いそうなのは、研究なのかなと思って。音楽家だったら音楽家で、売れるにしろ売れないにしろ、生活できるにしろできないにしろ、自分が心から尊敬できない人とは一緒に仕事できないな、という強いわがままが僕の中にあったので、就職活動は一切考えていなかった。当時、村井徳田研という共同研究室にいて、関連でお手伝いに行っていた会社から「君、卒業したら来なよ」とも言われていて。

五十嵐:最悪なんとかなるという話ですよね。

北山:僕、そうやってずっと生きてきたんで。

五十嵐:話が変わりますが、「独立自尊」という福澤諭吉の言葉がありましたが。意識していました?

北山:勿論知ってはいましたけど、自分の人生と合致していたかというと、今思うとそうでもないなと思うんです。でも、その当時から今までの間、その時代の概念に触れていた影響はとても大きいと思います。

五十嵐:大学全体の中にあるカルチャーとして、ですよね。

北山:そうですね。キーワードがあると、何か起こった物事をみんなそれに関連付けて考えるじゃないですか。そのプロセスを共有していると、卒業して10~15年経って集まったとき、すごく話が通じやすいというか、共通のチャンネルを持っている感じがありますよね。

五十嵐:特にSFCができた頃、ほかの多くの学部は100年ぐらい経っていたので、新しい学部を作るということが、より独立自尊的な雰囲気を生んだのかもしれないですね。

北山:役に立つとか、意味があるかではなくて、まず面白くないとね、という空気があったと思います。だから、それに乗っかって、中身のあまりない、ただ面白いだけのやつがすごく評価を受けたまま世の中へ出ていって、ぺちゃんこになるということもあったと思います。でも、その空気があったこと自体は非常に大きな役割を担っていたのかもしれないなと。

五十嵐:私自身も子どもの小学校受験を機にやっと独立自尊を学び直したという感じですね。この歳になって振り返ると、こういうカルチャーにいたんだなと、自分の中で腹落ちできるようになりました。当時は自分の好き勝手して色んな遊びもしましたし、同級生もいろいろな道に行っていますので、それらの経験を頭の中で結合させていく中でわかってきた価値観というのはあるなと思いますね。だから僕、今同級生とか同窓生とか、僕もこういう仕事をしているので、突然知らない同級生と会っても、共同価値観があり、その空気感に安心できたりするんですよね。

北山:わかります。別にそれは、悪かったあの時代がどうのこうの、ということではなくて、先輩や先生が持っていた雰囲気に許されていた部分というのが、そのキーワードによって違うと思うんですよね。ほかの学校の人たちといろいろ話をしてみても、それは良し悪しではないんですけど、違うなと思うことは結構あるので、慶應ならではの空気はすごく面白いなと思っています。

五十嵐:在学中のときは気づかないんですよね。

北山:そうなんですよ。完全にその中にいると気づけないですよね。わかります。

五十嵐:ゴスペラーズに加入された頃についてですが、アカペラサークルに加入されてからの10カ月はメジャーデビューを意識して活動されていたのか、それとも自然の流れでその道筋が開いていったのか、どちらでしょうか?

北山:アカペラはやりたいけれどあまり歌ったことがない状態で、やっと2年以上経って仲間が見つかった喜びで、もう歌いたくてしょうがなくて。だからその頃からはSFCには行かず、家が荒川区なので、都電荒川線ですぐの早稲田に行っていました。毎日のようにハモっていました。やたらと熱の高い、しかもベースボーカル、低い声を練習しているやつがいるぞ、ということで話題になって。当時ベースボーカル脱退直後だったゴスペラーズのリーダー村上てつやが、「あいつをテストしよう」と。知らないうちにテストが行われて、なんだかわからないけれど合格して、知らない先輩方に誘われてノリで加入したら、その次がもうプロとしてのステージで。半分以上騙された、みたいな感じなんですよね。

五十嵐:ゴスペラーズは、Street Corner Symphonyの中の1グループだったんですよね。

北山:そうです。伝説の先輩、みたいな。普段サークルイベントには出てこない。アマチュアながら自分たちでブッキングしてライブハウスに出ていたので、観たければお金払ってこい、というスタンスでした。インディーズデビューも決まっていて、アルバムのレコーディングが終わっていて。だけど、リリース記念ライブしようと思ったらベースボーカルが抜けちゃった、どうしよう、という時だったんです。

五十嵐:ある意味、運なんですね。

北山:完全に運ですね。もうよくわからないです、全てが絡まりすぎていて。僕は最初代打として入ったので、記念ライブが終わった時に役割を終えたはずでした。ところがまさにその日の打ち上げで「就職が決まったから抜けるね」って二人脱退したんです。やめるのは僕のはずです。あっけにとられているとリーダーが俺のほうを見て「北山、どうする?」って聞いたんです。いやいやいや。僕がやめたらデュオになっちゃうじゃないですか。2人で3人を探すより3人で2人を探すほうがいいだろうと、それぐらいの気分で。じゃあできる範囲で続けますと言ったら、そのままずるずると。次の2人を探すときは、プロ志向のあるやつを入れよう、北山も一緒に選ぼう、という話になって。

 そうすると、僕も選ぶ側になってしまったので、やめられなくなっていくじゃないですか。そうしてどんどん外堀が埋まっていき、9月の後半ぐらいに、このメンバーで再始動、ということになった。それでレコード会社に挨拶をしに行ったんですね。そしたら、メンバーチェンジのことは伝わっていなくて、そんなことが起きるなんて思わないから話が進んでいて、メジャーレーベルへの移籍がほぼ決まっているっていうんですよ。呆気にとられているところにプロデューサーさんが現れて、君たちがやると言ってくれるなら、もうタイアップも決まっているからすぐレコーディングしたいって。そんな流れでデビューしたというのが本当のところで。だから、巻き込み事故に次ぐ巻き込み事故で。当時本気でバンドやっていて、メジャーデビューしたい!という友達や先輩後輩はいました。そういう人たちからすると本当に頭にきたと思うんです。寝ても待ってもいないような人間に、果報だけ届くんですもんね。

五十嵐:僕らのイメージするミュージシャンは、高校時代に街角で弾き語りをして、そこから自分たちでどんどん曲を作っていく感じなんですが、それと全く違うということですね。

北山:そうなんですよ。ハモりたい、と言っていたのが仲間とハモれるようになったけど、なんかやたらと厳しい環境にいるな、そんな感じでしたね。

「うたって何だろう?」非常勤講師として教壇に立つことで良い影響をもらっている

五十嵐:それで実際メジャーデビューが決まるわけなんですけど、それからトントン拍子だったんですか?

北山:歌で活動するという経験がなかったので、プロだったら普通これぐらいできるよね?というラインは見えていても、それに対して実際は半分も行かないところを、そこからの10年間はずっとジャンプし続けているという感じでした。届かないのはわかっていてもジャンプする無理がずっとある中で、これぐらいできればなんとか怒られないかな、というラインに届くまでの過程の中にヒット曲が入ってきた、という感じです。

五十嵐:つまり20代は、プロとして活動しながら、ご自身の歌の成長過程において、ヒット曲にも恵まれたという。

北山:そうですね。本当にそれは運が良すぎるんですけど、グループとして活動する守られた状態で、ともかく僕は成長のために全力を尽くします、それだけで許してください、そんな環境をもらったと。それはある種ゴスペラーズという企業の中の新入社員、みたいな形だったんだと思うんですけど、そういうふうにやっていましたね。何回かやめてしまおうと思ったことだけは覚えていますけど、それ以外の具体的なことはあまり記憶がないです。

五十嵐:大学を卒業してから、ほかの同級生どうなっているのかな?と思って悩んだりなどはしましたか?

北山:そういう意味では、悩んでいる暇がなかった、という言い方が正直なところなのかもしれないです。悩みもありましたが、それはどちらかというと、狙った声が出ないとか、ライブでどうしても緊張してパニック障害のようなことが起きて、どうやったら治るのかわからないとか、そういうことでした。IT系が爆発して、楽天のような会社を起業した人たちがどんどん成功していったり、その他いろいろな面白い人たちが世の中で取り沙汰されていったような時期に、ゴスペラーズが全然売れていなくても、選んだ道を先輩や同期と比較して、隣の芝生が青くて悩んだ、というようなことはなかったです。

五十嵐:自分の進んでいる道に集中して一生懸命やられている、という感じですよね。

北山:そういうふうに思っていたわけではないんですけど、でも結果的にはそうなっていたかもしれないです。ひょっとしたら、記憶が美化されているだけかもしれないですけど、でも今振り返るとそういう感じがしますね。

五十嵐:大学の友人は多くいらっしゃると思うんですけど、20~30代頃のお付き合いはありましたか?

北山:ゴスペラーズでヒットが出るまでは、あまりなかったです。それまでは自分が使えるエネルギーの分配を考える余裕もなくて。僕が100だとすると、ゴスペラーズに必要なエネルギーは300とか400で、そんな中グループにいると、知ったかぶりしたり格好つけたりして、これは俺がやりますとか、これはできます、という話もいろいろやっていました。人前にも出なきゃいけないし、自信を持ってステージで歌わなきゃいけないし、インタビュー受けたら、ファンの皆さんに喜んでいただけるようなことも言わなきゃいけない、でも中身としては足りない、それしかなかったので。

 交流関係をつなぐ最低限の努力もできていなかったと思いますが、ヒット曲が出たおかげで、そこから同級生との付き合いが復活しました。ライブ行きたい!と言ってもらえて、嬉しいから来て来て!と言って来てもらって楽屋で会ったり、そういうことがありました。実は同期たちよりも、K.O.E.の後輩たちとの交流が多かったです。さっきの話で言うと、早稲田のSCSの後輩より、SFCの後輩のアカペラのほうに興味があって、SFCによく行ったりしてました。

五十嵐:後輩の面倒を見ながら、慶應の非常勤講師もやられていますもんね。

北山:そうですね。卒業後いつからかワークショップ的なことをしにK.O.E.に行くようになったんですが、そこに村井純氏の娘さんがいたんです。情報が伝わったわけですね。2011年の震災のあとでした、お話する機会があった時に「SFCに帰ってきているらしいじゃないか」と。せっかくなら授業やってくれよと言ってもらって、2012年から講師をしています。

 僕を非常勤講師として呼び戻すことが成立するのもびっくりして。卒論も出していないような人間を講師で呼び戻していいのか?と。しかも、何を教えるんですか?と言ったら、ひらがな2文字で「うた」という授業にしよう、というところまでは指定なんですけど、内容は?と聞いたら、それはようちゃんが考えてよ、と。

五十嵐:先に講師に来なさい、というのが先で、お題はあとなんですね。

北山:そうなんです。しかも1人でやってくれと。僕はうたに関するプロに週替わりで来てもらって、「うたって何だろう?」を対談で考えて行くような授業をしたかったんですけど。それはだめだと。ちゃんと自分ひとりの頭でそのテーマと向き合いなさいと。そこはSFCなんだなと。その環境で悩んだことが、僕自身、音楽家・歌手としてのとても良い学びになっています。大学に教員で戻ったことによって、自分の作品やステージ上の振る舞いに、非常に良い影響をたくさんもらっていると思います。慶應のおかげで今歌っていると言っても過言ではなくて。忖度ではなく、逆にほかのところでは言えない話なので。

レストランでの忘れられない思い出

五十嵐:次のお話ですが、内輪ネタでの湘南台でよく行かれていたレストランとか、面白ネタとか、ありますかね?

北山:ニューオーリンズっていうパスタ屋さんに友達と行ったとき、ラグビーサークルとアルティメットサークルを兼部している友達がいたんですが、そいつ腹が減りすぎて、テーブルに置いてある粉チーズ、こういう小さじでかける形式だったんですけど、それを食べ始めて、めっちゃ怒られたというのが忘れられないんです。うわ、アウトだな、って思って見ていたら、そこの主人が、そんなに怒る?というぐらい怒って。地元で商売されている方からすれば、別にどこの学生だからどうという話ではなかったんだと思うんですよね。ほかのお客さんもみんな縮み上がるぐらい激怒して。でもこの人、きっといい人なんだろうな、っていうのがあったり。

 あとは、ハスキーズで、豚菜(とんさい)っていうとんかつ屋さんによく行っていました。久しぶりに湘南台へ戻ったら、急行は停まるし、小田急線だけでなく横浜市営地下鉄や相鉄線が乗り入れてるし。

五十嵐:だいぶインフラは開発されていますね。

北山:で、豚菜も建て直していたし、チェーンのファミレスみたいなものもたくさんあって、完全に様変わりしていて。

五十嵐:ラーメン二郎って行ったことあります?

北山:二郎、行ったことないんですよ。

五十嵐:卒業後もですか?

北山:そうなんです。在学中は行く機会がなくて。僕の知り合いで全然慶應に関係がないような知り合いや後輩の中にも、ジロリアンいっぱいいるんですよ。僕もラーメン好きなほうなんですが、1999年から厳しめの食事制限を始めて、哺乳類を断っているんですね。もし断つ前に行ってハマっていたら、1~2か月に1回くらいのペースで解禁するようなタイミングのどこかで二郎を食べることもあったかもしれないんですが、みんなのあのハマりっぷりを見ていると、解禁日が全部二郎になるというのが怖くて。二郎の人って、絶対二郎じゃないですか。

五十嵐:もう二郎のどこの店舗に行くかしか考えていないですもん。

北山:そうですよね。選択肢をジャンル分けするとしても、カレー、パスタ、ラーメン、二郎じゃないですか。ラーメンと二郎は別な感じなので。

五十嵐:独立のジャンルですね。

北山 そうですよね。だからそこに踏み出す勇気がまだないんです。実は二郎の三田本店の前をよく通るんですね。通るたびに毎回お客さんが並んでいるので、そんなにハマる理由を知ってみたい、という欲もあるんですけど、その先の世界が怖すぎて近寄れないんですよね。

“みんな人間なんだ”という気づきの素地も、“世界のトップを目指そう”という流れも慶應に入ったことで得られた

五十嵐:最後の質問をさせてください。お聞きしたいのは、シンプルに、慶應入って良かったですか?悪かったですか?ということと、その理由について。そして、もし子どもを入れるなら慶應に入れたいですか?

北山:まず最初の、良かったか悪かったかの質問についてですが、本当に良かったと思っています。一番の理由は、どんな立場の人もみんな人間なんだということの気づきの素地はSFCで得られたと思っていますし、今は教える立場になってSFCに帰ってきたことで、今の世界的な潮流でもある音楽やアートの分野を、サイエンスとして、総合大学で研究しようというその教員仲間にも入れてもらえました。日本の中で牽引していこう、なんなら世界のトップを目指そう、そういう流れに入れたのも慶應に入ったからで。プロの音楽家としてデビューしたときも、一般的に言うと、慶應出てミュージシャンになるなんて慶應を捨てたようなものだ、って、僕らの世代ぐらいまでは、僕らの親とかは思うじゃないですか。

五十嵐:なんで銀行や商社に行かないんだ?っていう世代ですからね。

北山:あんなに高い学費払ったのに、って言われるんです。僕の親父は税理士なのでいろいろ言われたんですけど、結果音楽をやって真面目に向き合っていることを、そして今度は研究として学問の世界に持っていくというこの道筋というのは、慶應じゃなかったら作れなかったと思っているので。これは、死ぬまでというか、僕の意識がはっきりしているうちは、何をどう探求しても必ずそれに価値があるんだというモチベーションにつながるわけなんですよね。本当に感謝しています。

 子どもを慶應に入れたいかという話は、子どもがどうしたいかが一番なんですけど、僕がもう1回子どもになったらという前提で考えると、どこから入るかだなと思います。僕は大学からですが実は高校も、身の程知らずの田舎者が何の対策もしないでふらっと来て受けて、落ちて帰っているんです。例えば幼稚舎からの流れだと世界はどう違って見えるのか、それを味わってみたいなと思ったりします。きっとどのタイミングからでも慶應はそれぞれ違う良さがあって、素晴らしい教えがたくさんあるので、出来れば子どもにも味わわせてあげたいな、そう思います。

五十嵐:楽しい話をたくさんしていただき、本当にありがとうございました。これからもぜひよろしくお願いします。

北山:こちらこそよろしくお願いします。

五十嵐:お疲れさまでした。ありがとうございました。


インタビューアー : 
五十嵐 幹(いがらし みき)
慶應義塾大学経済学部卒業
株式会社クロス・マーケティンググループ 
代表取締役社長兼CEO