私の履歴書 シリーズ13:宮武 諭 在アルゼンチン日本国大使館医務官:救命センター長から、医務官として家族とともに途上国へ。 「46歳にして、新たな挑戦。目の前のことに集中して向き合っていく」

宮武 諭(みやたけ さとる)

在アルゼンチン日本国大使館 医務官

1971年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学医学部卒。卒業後、慶應義塾大学医学部救急医学教室に入局。2005年より済生会宇都宮病院救急科に勤務。2016年、同院救命センター長となる。2018年に外務省入省、在ジンバブエ日本国大使館に医務官として赴任し、2020年より現職。

(インタビューアー 湧永 寛仁・柴田真規子)

(発言は個人の見解であり、所属する組織の見解ではありません。)

おしゃべりが大好き。好奇心旺盛な子ども時代

湧永:宮武先生はどのようなお子様だったのでしょうか?
宮武:小学生の時はとにかくおしゃべりで、落ち着きがなかったです。通信簿に毎年必ず、そのことを書かれ、「来年はそこを直しましょう!」と言われていました。好奇心旺盛で、すぐに質問を聞かずにはいられなくて、あちこち気になってしょうがないという子どもでした。
柴田:授業内容に関わることを質問したり、友達と相談していたのですか?
宮武:いいえ、全然関係ない話ばかりしていました(笑)。椅子を倒して後ろの机に寄りかかったり、いつも止まってない感じでしたね。成長とともに少しずつ矯正はされましたが、今でも同じところで待っているのが苦手です。電車を待っていても、ホームの端から端まで歩いたりしています。
湧永:人見知りなどもなさらないのですか?
宮武:そうですね、人見知りはしないです。むしろ話しかけるほうで。シーンと静まり返っているのが苦手で、何か喋らなきゃいけないかなと思うたちです。
柴田:お勉強が得意というのは小学生時代からなのでしょうか?
宮武:小学校のころ、“何かで認められたい”という気持ちがあったと思います。その中で僕は、「宮武君勉強できるね」って言ってもらえるのが嬉しかった。だからそのキャラを演じるじゃないですけど、そうありたいと思っていました。
柴田:ご両親の教育方針やご兄弟の影響はありましたか?
宮武:両親からはほとんど何も言われませんでしたね。勉強しろと言われた記憶はないです。ただ真面目でよく勉強している姉がいて、両親からは「お姉ちゃんを見習いなさい」とは言われたことがあります。中学生のころからおしゃべりも少し落ち着いてきて、「いま頑張れば、あとに繋がる」と考え、「付属に入って大学まで上がりたい」という目標設定を自分で持つようになりました。

慶應高校合格という大きな転機。流れのなかで掴んだ医学部

湧永:そこからなぜ慶應高校を、そして医学部を目指したのでしょうか。

宮武:小中学校は東京都あきる野市の公立に通っていました。父は中学校の先生で、中学生ぐらいまでは父親と同じ職業に就きたいなと思っていました。高校受験をするとなった時、周囲に慶應の在校生や卒業生の知り合いはいなかったのですが、漠然とイメージがかっこいいなと憧れていた“慶應”にトライしてみて、合格をもらうことができました。これは自分の人生の中で最初に起きた大きな転機でした。

高校に入って次に目標としたのが、「海外で働きたい」というもの。外交官としてまたは商社などに入り、海外で働けたら楽しいなと2年生のころまで思っていました。慶應高校は2年生のときに授業科目の選択があります。理系または文系のどちらの大学学部に進むかを決めます。その時に、医学部を目標にできる成績があったので、一番難しい、チャレンジングなところを目指してみたいと。それで医学部に入りました。最初からお医者さんになりたいという明確な目標があった訳ではなく、流れのなかで掴んだ道でした。

高校3年間付き合える友達がほしい。今でも部の仲間とオンライン飲み会

湧永:高校時代、クラブに入りましたか?

宮武:はい、高校生のときは剣道部に入っていました。塾高は内部生が多く、一学年800人もいて、毎年クラス替えがあります。3年間付き合える友達がほしいと、小学生のころやっていた剣道部に入りました。その時できた仲間とは、今でもとても仲良くさせてもらっています。つい最近もオンラインで、クラブ飲み会をやりましたよ。部に入って本当によかったです。それから高校3年生次の理系クラスもまとまりのある仲のいいクラスで、今でも付き合いが続いています。

湧永:3年間付き合える友達を作るために、クラブに入るという考え方だったんですね。

宮武:はい、大会に勝ちたいというより、僕はそちらでした。

湧永:部活が一緒の人とは、生涯つながりますもんね。この結束は本当に堅いと思います。

高校卒業日に剣道部の同期と撮った記念の一枚。後列一番左が宮武さん

職業訓練校のような学部時代。金時計を受賞して卒業

湧永:医学部ではどのような学びを得られましたか?
宮武:2年生までは予科といわれ一般教養が中心で、3年生から学部と名が付き、4年間は専門を学びます。キャンパスも信濃町の病院の中にあり、学ぶことも今後ずっと仕事で使う医学。僕のなかでは3年生からは職業訓練校にいるイメージでした。普段の授業にでるかどうかは自主性にまかされていて、実習以外は出席を取ることがほとんどなかったので、試験をパスできればOKだったのですが、勉強しなければならないことや覚えることがとても多く、学部に上がってからは机に向かっている時間が格段に増えました。やらなければいけない時に、ポイントを絞ってやることが大事ということを学んだと思います。
湧永:手術の練習などもしますか?
宮武:今もあるかはわからないですが、外科では動物実習で、犬の手術がありました。僕はその時、手先が器用ではなかったので、自分は外科系ではないなと思ったのを覚えています。
柴田:卒業時は学部内成績優秀者(首席)に送られる金時計を受賞されていますね。
宮武:金時計受賞者と言われると、恐縮してしまいます。僕はすごく心配性なので、試験におちることを心配して勉強していたらいただけたというのが正直なところです。

広く疾患が見られる医者になりたい! 当時はマイナーだった救急部へ入局

湧永:医学部在学中に専門を決めますよね?先生はなぜ救急を選ばれたのでしょうか?
宮武:現在は大学卒業後、2年間の初期研修でいろいろな科をローテーションしてから、自分の専門を選ぶシステムになっています。でも、当時は卒業するときに自分の専門を決めなければいけませんでした。僕が救急を選んだのは、ひとつは、救急にはさまざまな病気の人が運ばれてくるので、「広くいろいろな疾患が診られる医者になりたい」というのと、「具合が悪い人に遭遇したときに、すぐに処置ができるようになりたい」ということが理由でした。「救急ってかっこいい」という憧れもありました。
 ただ、当時、慶應の救急の医局は、救急科ではなく、救急部でした。救急がまだ1つの科として認識されていなかったので、入局する人は少なく、僕の時も同期は一人だけでした。
湧永:私はER緊急救命室(アメリカのテレビドラマシリーズ)を見ていたのですが、かっこいいですよね!
宮武:僕もER大好きで、DVD全部持っていました。カーター君やグリーン先生に憧れて。
湧永:救急では何かの専門ではなく、幅広くという形になりますね。
宮武:はい。僕が携わっていた救急のシステムはER型と言って、救急医が最初に救急搬送されてきた患者さんを診て、安定化させるために必要な治療を始めて、もし専門治療が必要であれば専門科の先生に診療を引き継ぐというスタイルです。例えば、患者さんが急性心筋梗塞でカテーテル治療が必要だったら、循環器の先生にバトンタッチして、そこからの治療は循環器の先生がやります。救急医が最初の判断をして、次につなぐという形です。
柴田:最初の判断がとても重要ですね。専門より高度になりますね。
宮武:どちらが高度ということではなく、横軸に幅広く診る救急と、縦軸に深く診る専門科の両軸が必要です。日本では高齢者の救急が増えていますが、高齢者の病気って一つだけではないことが多いんです。例えば、腎臓も心臓も悪くて、肺炎にもなっていることがあります。この時、求められるのが総合的な判断で、救急ではバランスよく横に広く見る、ジェネラリストの要素が必要になります。
湧永:ひとつ間違えば命に関わるという現場で緊迫感がありますか?
宮武:経験を積むうちに、自分の中にある程度パターンが出来て対処できるようになります。慣れ、訓練、長年の経験が助けてくれるようになりますね。
湧永:その後は宇都宮の病院ですね。
宮武:そうですね。卒業後9年間は大学と市中病院で、総合内科の研修と救急の研修をやり、10年目に済生会宇都宮病院に医局の人事で赴任しました。赴任当時は、救急の専従医は僕1人だけで、いろいろな科の先生たちのローテーションで救急をカバーする形でした。そのうち、救急を一緒にやってもいいよという仲間が少しずつ増えてきて、救急専従医でチームが組めるようになり、それがとても嬉しかったですね。この病院の救急は、宇都宮周辺をカバーする救命センターだったので、重症の人が搬送されてきて、いろいろな疾患を見ることが出来て、自分の技量も上がり、とてもやりがいを感じていました。もうひとつよかったのは、若い研修医が必ず救急のローテーションに入るようになったことです。毎年10人ぐらいが、3か月ずつ救急をローテーションするんですが。やる気に溢れる研修医たちと一緒に仕事ができるのは、良い刺激になりました。毎年メンバーが入れ替わり、新たな出会いがあり。今思い出しても、すごく楽しかったなと思います。
柴田:時代の流れとして、救急が一つの専門科になったのですね。
宮武:そうですね。救急が正式に科として認定され、診療科として名乗れるようになったのは、僕が卒業した後ですね。救急をしっかりやって行こう、という機運は高まっていると思います。
柴田:宮武先生の先見性を感じます。
宮武:いえいえ、単純な憧れだけだったので。
湧永:私も湧永製薬という会社に勤めて、お医者さんって縦軸に深く見れることはもちろんいいのですが、横に見られるほうが特に最初は重要だと思うところがありました。宮武先生のされているところは本当に素晴らしいです。宮武先生のような方が増えるといいですよね。
宮武:ありがとうございます。恐縮です。

救命救急センターの職場見学に来たお嬢様と宮武さん

ふと立ち止まったセンター長時代。医務官募集のタイミングと重なる

湧永:そして現在は、外務省の医務官でいらっしゃいますね。
宮武:はい、そうです。
湧永:これはどういういったことがあったのでしょうか?
宮武:正直にいうと、救急医の仕事に疲れてしまったんだと思います。13年間、宇都宮の救命センターで働きましたが、辞める2年前に救命センター長という責任者になりました。いつかやると思っていましたし、目指していたところではあります。ただ、人手も豊富ではなかったので、責任者をしながら、他の先生たちと同じフルローテーションでシフトに入って、マネージングプレイヤーとして働いて。1年ぐらい経ったところから、病気になったわけではないのですが、疲弊してしまい…。僕は44歳で救命センター長になったので、これをあと20年ぐらい続けるのかと思うと、心の中がモヤモヤしてきたのです。夜勤をやっていたある日、夜2時ぐらいに患者さんが途切れたときに、なんとなくパソコンで外務省の医務官を検索しました。医務官という仕事があることは知っていましたが、募集は不定期。以前にも1回調べたことがあり、その時は募集がありませんでした。ところがその日は“募集中”という表示が出たのです。それで、その当直が明けて朝一番に外務省に電話をかけ、願書を送ってもらいました。その時点では、受かってから本当に行くかどうか考えようと思っていて、絶対行こうと思っていたわけではありません。子どもが4人いるので、家族に反対されたらやめようと。ガラッと生活が変わりますから覚悟が必要です。
湧永:最初に配属された先がジンバブエというのも驚きですね。
宮武:基本的には行先は選べないので。
湧永:ご家族からしたら、どこに行くかわからないけれど、という話になるのですね。
宮武:そうですね。最初はそこからスタートですね。新米の医務官は、アフリカなどの開発途上国に行くことが多いのは知っていました。願書を送ってもらった時点では妻には内緒にしていましたが、ある日仕事から帰ってきたら妻から「何これ?」と、外務省と書いてある封筒について聞かれたのです。それで正直に話すと、「面白そうじゃない。やってみれば。」と後押ししてくれたのです。
湧永:ネットを見たときに募集がなかったら、この話はなかったかもしれないのですか?
宮武:そうですね。その時期に募集がなかったら、子どもの年齢などを考えて、この選択はしなかったかもしれません。

医務官の仕事とは?

柴田:医務官とはどういうお仕事でしょうか?
宮武:海外にある日本大使館や総領事館のことを「在外公館」といい、医務官は、医療事情のよくない開発途上国を中心に、世界、約100か所の在外公館に赴任しています。仕事は、大使館の職員と家族の健康管理を行うこと。現地の医療機関を訪問して、医療関係者とコネクションをつくり、何かあったときに協力をお願いできる体制をつくっています。他には、現地の医療事情や医療情報を収集して報告すること。例えば、今回のコロナのような感染症が流行した際には、感染状況などを把握し、それを在留邦人に向けて発信したりします。また、医療がかかわるような邦人援護(困っている日本人を助ける)の案件が発生した場合、例えば大きな事故が起こって邦人に怪我人が出るなどがあった場合には、医療面からの側面支援をします。
柴田:そうなると、横軸でたくさん診療してきた宮武さんの経験が活かされる場所なんですね。
宮武:そうですね。救急をやっていてよかったと、転職してからも感じています。特に途上国には医療リソースが少ないので、救急医としての経験が役立っています。

途上国のシビアな医療事情。恵まれている日本を思い知る

柴田:途上国はやはり日本の医療事情に比べて、劣っているのでしょうか?

宮武:大使館は首都にあるので、私立の病院にはある程度の医療設備はあります。しかし、僕がいたジンバブエの首都ハラレには、例えば、急性心筋梗塞に有効なカテーテル治療ができる医療施設は1つもありませんでした。これは、日本であれば多くの病院で、標準で出来る治療です。一部の富裕層や政治家などは海外での治療を受けることが出来ますが、多くの人はお金のかかる私立の病院にはかかれず、公立の病院に行きます。公立の病院は、経済事情が厳しいため設備が整っておらず、患者さんが集中するため混雑もひどく、医療レベルが低下してしまう傾向があります。2019年には、ジンバブエで、公立病院の先生や看護師さんらが低賃金のためにストライキを起こし、それが数カ月続いて、多くの人が必要な医療を受けられない状況が発生しました。「お金がないと十分な医療が受けられない」ということが当たり前におこるのだということを思い知らされました。日本では誰でも救急車が呼べて、どこかの病院に必ず運んでくれます。さらにはどの病院でもそれなりの水準の医療が受けることができる。セーフティネットとして医療インフラがあることが、どれだけ恵まれていることかと実感しています。 また、海外に行く場合には、しっかりとした保険に入っておくのが大事です。医療費を担保できないと、そこから先の医療が動きません。これは、すごくシビアな現実ですね。

在ジンバブエ大使館勤務の最終日。お世話になったローカルスタッフと

1日16時間の停電を経験。だからこそ育まれた家族とのきずな

湧永:ジンバブエでの生活はいかがでしたか?
宮武:ジンバブエはインフラが整っておらず、一日16時間の停電を経験しました。雨季と乾季があり、雨季に降る雨をダムに貯めて電力の多くを賄っているのですが、2019年は水不足のために電力不足に陥りました。夜の10時ぐらいに電気が届き、朝の6時に電気が消えるという計画停電とそれに伴う断水が何カ月も続きました。大使館から発電機の貸し出しがあり、必要な時には電気を使えましたが、一日中という訳にはいきません。限られた時間のなかで出来ることを全部やるという生活をしていました。また、ガソリン不足もよくおこり、ガソリンスタンドに1~2時間並ぶということもありました。
湧永:1~2時間ですか。
宮武:そうですね。すごい列が出来ています。ガソリンがあったりなかったりするので、パニック買いが起きます。そういう不便なところはありましたが、最初に想像していたほどではなかったですよ。都市部で生活する分には、スーパーなどもありますし、皆さんが想像するほど、不便ではないという点もありました。
湧永:ご家族も一緒に行かれたのですか?
宮武:はい、一緒です。
湧永:お子さんや奥様もなかなか大変そうな生活ですよね。
宮武:そうですね、大変だったと思います。
湧永:電気がないと家事とか何も家でできないですよね。
宮武:そうですね。小さいプロパンのガスボンベを買ってきて、キャンプのように料理したりしていました。
湧永:そう考えると日本って便利だなと。
宮武:圧倒的に便利ですね。
柴田:環境を変えてみて、先生自身は今どんなふうに思われていますか?
宮武:環境が変わってよかったことは、ひとつは家族と過ごす時間が増えたことです。救急をやっていた時は子どもと休みがほとんど合いませんでした。でもジンバブエは不便な環境なので、家族で力を合わせないと生活できない側面もあり、そういう意味で今は家族と密に過ごすことができて、それはすごくありがたいと思っています。
柴田:共同体という感じですね。
宮武:そうですね。それはすごくポジティブな面です。
柴田:お子さんたちや奥様はどんなふうにおっしゃっていますか?
宮武:子どもたちからは、日本のほうがよかったんじゃない?と、言われることもあります。僕自身は海外に出たことなかったので、子どもたちにとっていい経験になるだろうと思っていましたが、親がそう思っていても、子どもにしてみたら大変だろうなと思うことはたくさんあります。
柴田:それでも楽しんでらっしゃいますか?
宮武:まだ3年目なので、ようやく言葉に慣れてきたところです。ただこのコロナでこちらもずっとオンラインでした。オンラインだと、実際に学校に行くよりも言葉がなかなか覚えられず、その面では苦労しているかもしれません。

2か国目はアルゼンチンへ。国ごとに異なる医療システムを経験

湧永:現在の赴任先のアルゼンチンはいかがですか?

宮武:ブエノスアイレス市内の病院をいくつか訪問しましたが、医療水準は保たれています。アルゼンチンはG20国ですので、停電や断水はなく、お店もたくさんあってネット通販もあり、生活面は問題ないですね。ただ、ここでは医療にかかるときのシステムがやや複雑です。ある先生の外来にかかって複数の検査をすることになった場合、ひとつの医療機関ですべてを完結することができず、それぞれの検査を専門とする病院を別々に受診しないといけないのです。日本のようにひとつの病院で、検査も診療も会計もまとめて出来るというのは有難いことだなと、改めて感じています。

湧永:ちなみにアルゼンチンでもお金がないと診療が受けられないのでしょうか?

宮武:アルゼンチンは公的医療が機能していて、保険がない人は公立病院で、無料で医療が受けられます。

永:無料で受けられるのはすごいですね。国ごとに医療システムも全然違うんですね。

先のことはわからない。今、ここに集中して懸命に打ち込む

湧永:今ちょうど50歳ですね?定年はありますか?
宮武:はい、65歳だと思います。
湧永:あと4カ国ぐらいどこかの国に行くことが考えられるわけですよね。
宮武:そうですね。ずっと続けるとそうなります。
柴田:でも先生はまた別のことをなさっていそうですよね。
宮武:そうかもしれません。宇都宮の病院で働いていた時は、生涯ずっとそこで働くつもりで、家も購入していました。でも、今の転職をしていますので、やっぱり先のことはわからないなって思っています。ですから、今やっていることにまずはしっかり集中して、その中で何か見えたら、その時にまたやりたくなったことをやればいいかなと。一生懸命やったことは必ずその後も役に立つと思いますので。
柴田:しばらくは医務官として国が変わっていくのは楽しみですね。
宮武:はい、その変化がやっぱり楽しいです。違う環境、違う医療システムを経験できることが財産です。これをもう少し積み上げていきたいですね。

自由と自主性が尊重される気風。これからもネットワークを大切にしたい

湧永:宮武先生にとって、慶應で9年間学んだことは今、活きていますか?
宮武:もちろん、活きています。慶應でいいなと感じたのは、とても自由で、自主性に任されているところです。一方で、自由な分、自分自身をコントロールしなければいけないことも学びました。また、医学部の勉強では、莫大な量を全部網羅することは難しいので、ポイントを絞って取り組むことを身に付けました。あと、ネットワークの重要性もひとつ。人と繋がりをより大切にするようになりました。慶應には個性的で優秀な人たちがいっぱいいるので、そこからもたくさん刺激をもらっています。中学の時にかっこいいなと憧れて、慶應に入ってよかったと思っています。

湧永:最後に同期に向けて、ぜひひと言お願いします!
宮武:ネットワークに助けられることが多く、皆様には感謝しています。例えば海外にいても、困った症例に出くわした時には同級生が相談にのってくれます。また、ジンバブエまで会いに来てくれた友人もいました。これが慶應のいいところ。これからも慶應で培ったネットワークを大事にしていきたいと思います。
湧永:ありがとうございました。
柴田:ありがとうございました。

    私の履歴書 シリーズ13:宮武 諭 在アルゼンチン日本国大使館医務官:救命センター長から、医務官として家族とともに途上国へ。 「46歳にして、新たな挑戦。目の前のことに集中して向き合っていく」” に対して1件のコメントがあります。

    1. 安井大介 より:

      約20年前にハラレへ出張しましたが、今は閉じてしまった勤務先のハラレ事務所長が慶應の先輩であり、大変心強かった事がありました。そんなハラレに時期は違えど医務官で慶應同期が居ると言うことは、特に邦人の数が少ない外地では、本当に心強いです。今のアルゼンチン、この先の赴任地にて、ご自身、ご家族の安全を大切にされ、在外邦人の健康管理に加え、任地とのネットワーク作りに益々の活躍を祈念してます。

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