私の履歴書 シリーズ11 川口由貴:婦人公論.jp編集長 .jpスタートから2年。今年5月に初の1200万PVを達成。「楽しく読めてみんなの役に立つような情報を」

(インタビューアー 湧永 寛仁・山上 淳)

撮影:初沢亜利(『婦人公論』撮影中のテスト撮影より)

川口 由貴(かわぐち ゆき)

中央公論新社 雑誌・事業局 デジタル戦略部 編集担当部長
婦人公論.jp編集長 兼 社長室

1973年生まれ。和歌山県出身。慶應義塾大学法学部法律学科卒。卒業後、中央公論社(当時)に就職。
営業部、『マリ・クレール』編集部、広告部、を経て99年に『婦人公論』編集部へ。婦人公論編集部を兼務しつつ、2015年に新設された特別編集部へ異動、その後2018年に新設されたコンテンツビジネス部に異動。
今年の4月からはWEBサイト『婦人公論.jp』編集長を務める。

両親の反対を押し切り慶應へ 自由を謳歌した大学生活
湧永:まずはどんなお子様であったかというところからお願いできますでしょうか?
川口:一人っ子で、過保護で厳しい家にいたので、小さい頃から真面目な子だったと思います。出身は和歌山県の南紀白浜というところで、1学年1クラスしかない、全校生徒120人くらいの小さな学校に通っていました。家は観光写真業をしていて、父親が比較的時間があったのでよく遊んでもらったせいか、学校でも遊ぶのは男の子とばかり。野球や釣り、海や川で泳いだり、虫を獲ったり飼ったりするのが好きでした。放課後や休みの日はほとんど外で遊んでいる、本当に田舎の小学生、という感じです。勉強は嫌いじゃなかったので、先生に怒られるタイプの子じゃなかったですね。
湧永:過保護で、厳しかったんですか?
川口:はい。勉強しろ、とは言わないものの、しつけとか、帰宅時間にはうるさかったです。自宅は観光地というか景勝地で、少し町から離れているためか、夕刊が朝来るようなところで。家の周りは、お昼は観光バスがたくさん来て、お客さんたちでにぎやかなんですけど、夜は本当に真っ暗。当時は野犬もいるような環境でしたので、1分でも遅れたらすごく心配されました。高校でも友達と寄り道して帰ったり、カラオケなども行ったりしたことはなく、大学に行っても門限が20時でした。
湧永:ずっと和歌山にいらっしゃって、慶應から一人暮らしだったんですか?
川口:はい。祖父母と叔母、両親もいたので、それまで実家では留守番も1人でしたことはなかったです。
湧永:なぜ慶應を選ばれたんですか?
川口:高校のテニス部の顧問の先生が、「お前推薦受けてみたらどうだ?」って2年生のときに声をかけてくれました。部活に必死で、進路のことなど全然考えてなかったんですけど、推薦は作文と面接だけだと聞いて。受験しなくていいならいいな、と思って校内で応募したら、指定校推薦の枠に2年生の後半に選ばれたんです。試験自体は高3の夏でしたが、指定校で落ちることはほとんどないみたいで、結局ほかの大学はまったく見ませんでした。
湧永:ご両親は心配されたんじゃないですか?
川口:反対、というか心配されました。でも先生が声をかけてくださったし、受かっちゃったらもう断れないですよね。
湧永:受ける前に相談されなかったんですね。
川口:受かるとも思ってないから、なんとなく気軽に受けたんです。でも親や親戚は、遠いということと、慶應なんてお金持ちばかりで、田舎から行ったらすごく苦労するんじゃないか?という両方の心配をしていましたね。でも地元の大学と言っても、和歌山大学へ行くのも遠いから、結局下宿なんですよ。でも親は、いきなり一人でなんて暮らせるのかな?と思っていたようです。私にとっては、大学でこっちへ来たというのは人生で一番大きな転換期だったかもしれないですね。
湧永:周りに知り合いはいなかったんですか?
川口:親戚もいないし、知り合いも友人も一人もいませんでした。実家の写真屋がテナントに入っていた旅館の事務所が東京にあったので、そこの所長さんに、親に連れられて一度会いに行きましたけど。1年の時は親が見つけてきた“ひようら”の女性専用マンションに住んでいました。

湧永:上京初日は、相当緊張されたんじゃないですか?
川口:そうですね。入学式には親が来て、式が終わったら帰りましたけど、推薦の試験が2年生の8月にあって、そのときに1度大学に来てるんです。間違えて幻の門から入っちゃったのをすごく覚えています。
山上:推薦の試験会場は三田なんですね。
川口:はい。それで、全国の北から順番に座るので、1個後ろが広島の子で、その後ろが島根の子でした。試験後に少し話す機会があって、お互いに「ヤバイ、落ちたかも」「受かってたら4月にね」みたいな感じで別れました。入学式の日に、クラス分けが貼ってある掲示板を見ていたら、広島の子と偶然再会して、しかも同じクラスだったのですっかり意気投合。彼女はまだ家財道具が揃っていなかったので、初日から私の家に泊まってました。
湧永:サークルにも入られて。
川口:はい、テニスサークルのソフィアと、軟式テニスのSLCと、インカレのテニスサークルに所属していました。ソフィアはすごくアットホームで、面白い先輩たちがいっぱいいました。すごくお金持ちの人もいたし、下からの人もいたし、帰国子女もたくさんいました。一方で地方から出てきた先輩もいて、一人暮らし同士集まってはよく飲んでいました。

湧永:大学生活を振り返ってみて、いかがでしたか?
川口:指定校推薦入学者は、出身の高校に成績が送られるので、勉強のプレッシャーはありましたけど、そのほかは楽しいことばかりで。1回もホームシックになりませんでしたし。授業、サークル、バイトであっという間に過ぎました。
湧永:東京の生活にもすぐ慣れましたか?
川口:電車の乗り方がわからなかったですね。実家ではほとんど乗る機会がなかったですし、1時間に1本とかの、北か南へ行くだけの電車でしたので。東横線の「急行」って普通の切符とお金で乗れるんっだっけ?とか。地元の高校へは船で通ってたんです。家から自転車で港へ行って、自転車ごと船に乗って、湾の向こう側まで行って、また自転車に乗って学校へ。だから地下鉄の路線図見たときは絶望的な気分になりました。テニスコートは電車では不便な場所が多かったのもあり、バイクの免許を取って上野の中古屋でバイクを買ったんですけど、今度は帰り道がわからなくて、ソフィアの先輩に電話して、後ろに乗っけて帰ってもらったこともありました。

就職活動 金融の内定を断って選んだ出版の道
湧永:川口さんはメディアの道に進まれたわけですが、就職活動の時は、どの業界へ行こうと思われていたんでしょうか?
川口:広告代理店に行ってCM作りたいな、という想いが漠然とありました。でもマスコミは試験対策が他業界と違うので、早稲田のマスコミセミナーに入ったんです。セミナーでは、テレビ・代理店と新聞・出版のクラスに分かれていましたが、テレビの人たちとはちょっとノリが違うかな、と感じ、出版・新聞クラスに移りました。そこで出版が面白いなと感じ、中心に据えて就活をすることに決めました。
湧永:第1希望は広告代理店、でもメディアに行きたいなというのもあって。
川口:そうですね。もともと本が好きで、字の仕事は良いかなとなんとなく考えていました。また、当時一人暮らしの女の子は一般職の採用があまりなく、基本的に総合職しか受けられなかったんです。男性が採用1000人でも女性は5人、みたいな状態でしたので、背水の陣というか。とにかく金融から商社、メーカーまで幅広く受けては落ちて、の繰り返しでした。そして、OB訪問をしているうち、出版はかなり男女平等な業界だとわかったんです。東京に残るにはある程度収入もなければいけませんし、定年までやりがいを持って働くには、出版がいいなというのはありました。
湧永:お父さん、お母さんはきっと帰ってほしかったですよね。
川口:かもしれませんが、就職活動も相談したことはなく、事後報告です。でも就活で苦労しているのはなんとなく伝わっていたような気はします。実際スケジュールも準備もすごく大変でしたし、面接で落ちるのは、勉強の試験で落ちるのとは種類が違いますよね。人格も否定される感じというか、途中で精神的に追い込まれそうになったこともありました。運よく金融の総合職に受かり、就活を終えようと思っていた時、街中でマスコミセミナーの友人と偶然会ったんです。彼女が映画業界に受かったと聞いて、羨ましいというか心残りが出てきて、最後にもう1社、記念受験しようと思った時、中央公論社(当時)が試験の日程が遅くてまだ残っていました。金融の内定もあるし、ダメもとで気楽に受けたところ、たまたま引っかかったという感じです。

営業~編集~広告部への異動 入社直後はさまざまな経験を
湧永:川口さんが中央公論社に入られて、一番初めは何からスタートされたんですか?
川口:営業でした。当時の中公は、新卒採用は基本的に編集者になるのですが、私はたまたま、採用担当の営業の役員が推してくれたのもあって、新人3人のうち1人だけ営業に配属に。とはいえ、創業110年で女性営業は1人もいなくて、最初はアウェーな感じだったんですけど、すごく親身になって皆さん面倒を見てくださいました。1年半ぐらい営業にいて、その後『マリ・クレール』編集部へ異動になったんですが、社内的に大きな変革があって、ほどなく広告部に移りました。中公が経営が傾き、読売に買収されるタイミングで雑誌の『婦人公論』へ移りましたが、最初に営業や広告に行けたことは勉強になりました。
山上:営業というのは、本屋さんに売り込みをかけるんですか?
川口:営業には、書店さんへの営業と、取次への営業があります。書店営業に関しては、委託販売制ですので、その書店に合う売れ筋を紹介したり、いいところに置いていただけるよう説明したり、POPをお持ちしたり、メディア宣伝と連動したりという活動をします。取次営業は、仕入れ交渉ですね。本や雑誌は勝手に部数を刷って納品できるわけではありません。雑誌なら、次号の特集を説明しつつ、どのぐらい仕入れてもらえるかを各取次と交渉し、その部数を全部取りまとめて、刷り部数が決まります。入社した96年はバブルははじけていたものの、出版はまだ良い時代で、本もよく売れていました。
山上:広告はまさに広告をとるんですかね。
川口:広告のなかでも、『マリ・クレール』や『GQ』担当で、景気もまだ良かったので、本当に華やかな世界でした。私はデパートもないような地方の出身で、ファッション誌なんか読んだこともありません。大学時代も4年間、お金もないのでブランドの服なんか買ったこともないし、化粧もほぼしてないような生活で。「DKNY」って何? ロバですか? ってレベル。今もよくドラマの舞台になるように、『マリ・クレール』は憧れの雑誌のはずなんですが、私にとってはもう、地獄でしかなかったです。ファッションショーにも行かせてもらえて、ランウェイを歩くモデルさんたちを目の前で見られるんですけど、最初は興味がないのでただ眠いだけでした。全くわからないことを一から覚えるのは大変でしたが、自分では選ばないことをできるのも会社員であるおかげというか、勉強になりました。
山上:じゃあ、いいタイミングで編集に行ったということなんですかね。
川口:そうですね。『婦人公論』がリニューアルするタイミングで、大きく編集部も動いていた時代だったので面白かったです。

婦人公論時代 有名な作家さんや伝説の編集者と一緒に旅行も
湧永:『婦人公論』では、どこかのコーナーをまず持つ、みたいな感じになるんですか?
川口:そうですね。まず、『婦人公論』は98年にリニューアルして隔週刊になりまして、毎号特集が決まっています。12月が合併号で1号しかないので、1年間で23本発行しますが、今回はお金、とか健康、とか特集テーマがあって、企画を出し合い、その中で1つか2つを振られて担当します。一方で、特集とは別で、話題の人のインタビューページがあったり、連載があったり。下働き感がほとんどなくていきなり前線です。
湧永:普通は下積みみたいなものがあるんですか?
川口:いきなりページを任されて、デスクや先輩と一緒にやりながら覚えていく感じですね。たまたま新人が来て、企画会議で大物芸能人や作家の名前を出して企画が通り、依頼してみたら受けてくださって成立してしまった、ということもあるんです。一応デスクが取りまとめてはいますけど、編集者同士は平等に頑張るというか、自分として頑張るという感じですかね。編集長は絶対の存在ですけど。
湧永:自分が作った企画、こういうのがやりたいというのは割と通る感じだったんですか?
川口:そうですね。新人だろうが企画は面白ければ通るし、通すために企画書も一生懸命頑張って作る。また、取材相手の方に受けてもらうための依頼書も工夫して書く。そういう意味ではやりがいはあると思います。新人は読者手記のページを任されたり、詩や短歌、俳句などの投稿をまとめるページなどからだんだん慣れていって、という感じで。当時はまだメールもなくて、生原稿もいただきに伺ったりしましたね。
湧永:よくドラマとかでありますよね。
川口:出版社って、他の版元とすごく仲が良いんです。文壇の大物作家の担当をさせていただいたりすると、先生のお誕生日や年始年末、文学賞のパーティーなどの後も、他社の編集者と一緒にお酒を飲んだりします。ある先生の会では、各社の編集者が集まって、年1回、北海道まで行って数十人でゴルフ大会をやっていました。めちゃくちゃ楽しいんですが、これの幹事になっちゃうとすごく大変で。各社の役員とかもいらっしゃる中、宿泊や航空券、ゴルフの組み合わせなどの手配をしないといけないんです。大緊張です。でも、2日間ゴルフして飲んで泊まって、他社の先輩編集者にいろんなことを教わったり、ありがたかったですね。私がラッキーだったのは、若いうちに、そういった集まりがお好きな作家さんの担当をさせてもらったこと。昔エッセイで読んでいた、伝説の編集者みたいな方にもお会いできて、よかったと思います。
山上:作家の先生もその旅行に一緒に行くんですか?
川口:もちろんいらっしゃいます。今はコロナでお休みしていますが、ある先生は年に1回、貸し切りバスで、ご自分の故郷に担当編集者を連れて行ってくださるんです。そこで桃狩りをしたり、温泉に入ったり、宴会をしたり。東京では文壇バーや銀座のクラブにご一緒したり。本当に「文壇」の最後の最後の楽しい時代かもしれないですね。

湧永:そういったところで、作家の先生とお話しできる機会があるのはとてもいいことですよね。
川口:そうですね、そういった場で作品のアイデアが生まれたりすることもあります。編集同士も、みんな自分の社で一番いい作品を書いていただけるよう努力はするんですけど、ギスギスはしていなくて、情報交換もしますし、同じ先生の担当者、という連帯感があるんです。社内よりも他社の編集者とのライバル意識のようなものも、持っているんじゃないでしょうか。一方で、狭い業界なので、失敗すると全部知れ渡ってしまうという緊張感もあり……。編集者と一口に言っても、雑誌編集者か書籍編集者かで仕事内容も、雰囲気も違いますね。書籍の人は作家さんからお原稿を頂戴するので、長いお付き合いが多いんですけど、私たちみたいな雑誌編集者はインタビューが多いので、幅広く、数多くのお付き合いになりますね。

どんな人も面白く楽しい!インタビューすることの魅力
湧永:印象に残っている方とかいますか?
川口:もう本当にたくさんの方にも、すごい人にもお会いできたんですが、若いのにすごいな、と思ったのは澤穂希さんです。なでしこジャパンに入ったばかりぐらいの頃に取材させていただいたのですが、人間が大きいというのか、オーラがあってすごい方だなと思いました。また、私はスポーツがすごく好きで、当時スポーツライターだった乙武洋匡さんと一緒に連載のページをやっていて。各業界のプロに会いに行く、という企画で、五輪選手とか、すごい方々のお話を伺うことができ、その経験は宝物です。
湧永:いろいろな方と会話するには事前準備が必要ですね。
川口:そうですね。自分が普段興味があったり得意なジャンルではないテーマで、急に取材が決まったりすることもあって、慌てて勉強をすることも。だからお原稿をいただく仕事もすごい面白いんですけど、私は割とインタビューするのが好きで、楽しいです。誰に会っても面白いし、勉強してその人のことを考えて行くのがすごく楽しいですね。私が一番最初に担当したのが、「近況心境」っていって、市井のお団子屋さんとか職人さんの取材を自分でして、自分で書くというページを持っていたんです。そういう昔から何十代扇子だけ作っているとか、そういう職人さんを1人で行って取材して、イラストレーターさんと一緒にページを作るんです。著名人インタビューはだいたいライターさんが書いてくださって、私たちはそれを修正したりするのですが、このコーナーは原稿も自分で書かなきゃいけないので、それが一番苦労したけど面白かったです。著名人の方は基本的に話すのが慣れていらっしゃいますけど、職人さんとかは慣れていなくて、機嫌の悪い人もたくさんいて、それはすごく鍛えられました。言葉も少ないし、ほとんどしゃべってくれない金魚屋さんもいました。メディアに出たことない人もいっぱいいて、みじかい時間で言葉を引きだすという勉強になりました。私の原点かもしれないです。皆さんいろいろな背景があるんですよね。婦人公論はそういう意味では一番幅広い雑誌というか、一般の人の話とかもやりますし、職人さんもいて、政治家もOKだし、スポーツ選手、作家、芸能人まで、誰にでも話を聞けるという感じでした。ファッション誌とかをやっていると、そういうことはあまりないと思います。

婦人公論.jp編集長へ 立ち上げ3年で1,200万PV
湧永:着実にキャリアを積まれて、いよいよ婦人公論.jpの編集長になられて。
川口:婦人公論のあとに、まず特別編集部という単行本を作る部署が立ち上がってそこに行ったんです。そのあと、コンテンツビジネス部という新しい部ができて、元は広告部なんですが、何か新規事業を作れということになり。特別編集部の時もコンテンツビジネス部の時も、婦人公論の連載は持っていたので、完全に離れてはいませんでした。1年ほどいた時、今度婦人公論でWEB立ち上げるから一人減るので紙の婦人公論に戻れ、と言われて。また2年半ぐらいいました。そして今年の4月の異動で、婦人公論.jpの編集長になりました。3年前にWEBを立ち上げたときは少し関わっていたんですけど、あとは離れていましたし、元々デジタルがすごく苦手なので、今は本当に勉強中です。前からいる後輩たちがすごくできるので、今は習いながらやっているぐらいの感じです。月600万PV平均出せる目標だったんですが、5月に初めて1,000万PVを超え、月末に青木さやかさんの記事がヒットして、一気に1,200万PVまで行ったんです。
山上:頑張るって何を頑張られたんですか?
川口:毎日コツコツ記事を上げていくというのが一番大事なんです。.jpはまだ予算があまりないので、基本的には紙の婦人公論に載ったものを転載しているのがほとんどなんですね。婦人公論は、雑誌不況のなか頑張っているとしても、1号十万人も読んでないわけです。すごく丁寧に作った面白くていい記事だったけど、届いていない。それをうちのWEBに載せて、タイトルもつけ直し、外部のプラットフォームにも配信し、お勧めの記事にしていただいたりすると、すごく多くの方に読んでいただける。紙の転載でない企画でいうと、私は青木さやかさんのエッセイの担当なんですけど、すごく評判がよくて、5月の末もすごかったんですけど、開始以来ずっとPVを支えてくださっています。
山上:体調悪かったのから復活するとか、そういう話でしたよね。
川口:そうです。がんやパニック障害のことも書いていただきました。そしてお母さんとの確執と、亡くなる前に仲直りを果たすお話です。雑誌ではわかりませんでしたが、WEBに流したときにはコメントをいただけるので、すごく共感されたというか、本当に反響が大きかったんです。あとは、朝ドラの『おちょやん』の放送中に、過去記事から作った記事も受けました。105年前からの婦人公論が本棚にあるので、当時の浪花千栄子さんのインタビューなどもあるのが強みです。『エール』のときは古関裕而さんのご子息、正裕さんのインタビューとともに、「ベイビーブー」さんというコーラスグループに古関裕而メドレーを歌っていただいて、.jpのYouTubeでPVを稼いだり。何かとのコラボはすごく当たりますね。
湧永:綿密な計画の下にやっているんですね。
川口:古い記事はうちの財産です。WEBなんだけど古いコンテンツも出せる。今まではその資産を活かせていなかったので、それをコンテンツとして活かそうというのがデジタル戦略部なんですよね。うちの部でもっと古い『中央公論』の記事もWEBとして配信しています。
湧永:WEBですと今までの紙と違って反応も速いわけじゃないですか。そういう意味ではスピード感は全然違うと思いますが、今までのやり方とはちょっと違いますよね。
川口:違います。うちの会社の出版物はとにかくクオリティ重視で丁寧には作っていますけど、WEBはスピード勝負になる時もあります。紙の婦人公論は、取材して記事をつくって校了するまで通常なら半月くらい。校了して2週間後に雑誌が出ます。婦人公論はスポーツ紙や週刊誌にスピードは負けますが、何か起こった半年先でもじっくり読めるようなお話を聞くというのを売りにしています。そのクオリティの記事を一部ですが速く出せるようになるので、その相乗効果はすごく高いかなと。あとはWEBといっても、ガラケーがなくなりスマホが普及して、50代、60代、70代の方も普通にスマホを使われますよね。ワクチンの予約で一層進んだような。このタイミングで、年齢層の高い方がじっくり読めるようなコンテンツを提供しているのはラッキーでした。リアルタイムでPVを見ているのですが、スマホが何パーセント、パソコン何パーセントという数字が出るんです。日中だと半々ぐらいですけど、夜になるとスマホの人が増えてきます。
湧永:WEBに手応えを感じてらっしゃいますね。
川口:そうですね。でも最初2ヵ月がちょっと良すぎたのでプレッシャーが。何事も御縁というか、回り回ってというのはすごく多いですけどね。青木さやかさんにも、2004年ぐらいに私の上司が1回取材していて、そのときはお母さんが嫌いだ、という話で終わっていたんです。数年後、私の著者の銀座のママが主催するパーティーに上司と参加したら青木さんが偶然いらしていて、「母は亡くなったんだけど最後に和解できました」と言ってくださって、じゃあそれをまた話してください、とご提案したのが3年前でした。その記事の転載がWEBでものすごく跳ねたんです。共感がする方がこんなにも多いんだと感心していたら、青木さんが自分でも書きたいとおっしゃって、私が連載エッセイを担当させていただくことに。それがまとまって1冊の本にもなったんです。今、本がなかなか売れない時代なんですけど、WEBの連載で知った方が本を買ってくださって。書籍の部とも良い循環になっています。
湧永:やっぱり川口さんの人間性というか人間力というか、青木さんも自分の辛いことを言うのは信頼できる方じゃないとできないじゃないですか。
川口:やはり媒体の信頼力が大きいかなと思います。うちの場合は長時間ご本人にインタビューして、お原稿も校正していただき、納得していただいたものを出しているので。ご本人にとっては話すことが整理ができることもあるようで、仕切り直すための場所になったりもしているのかなとは思います。

山上:それは伝統のなせる技ですね。
川口:何十年前からやってきた先輩たちの努力と、伝統、信用のおかげだと思います。
湧永:同じことをしゃべってもメディアごとに違ったりしますもんね。
川口:基本的に、つらいことがあった方がきちんと自分のことを読者に説明できて、ご本人のためになるように、編集しています。創刊の精神は「女性解放」で、平塚らいてうさんたちが女性の権利について語るような雑誌だったので、基本的には女性に寄り添って記事を作るということですね。

楽しく読めてみんなの役に立つような情報を
湧永:これからこういう記事を作ってみたい、こういう発信をしていきたい、というのはありますか?
川口:私は医療、健康の記事が好きでずっとやってきました。あとはいじめやDVや虐待、離婚など、苦しい立場にある方にやさしく情報を届けたいです。しんどい時にいきなり専門的な本を買って読むかといったら難しいと思うんです。テレビも情報が偶然受け取れるいいメディアだと思いますが、流れてしまう。雑誌は、読んで字のごとく別のことに興味があって読んでみたら、こんないいこと載っていたな、みたいなメディアだと。知らないことで不利益を被る人がいなくなるような記事を作りたいですね。楽しく読めてみんなの役に立つような情報や、スポーツ選手のすごいところを伝えて、元気や勇気が出るような記事を届けていきたいですね。

山上:今の仕事で、慶應で学んだことで役立ったこととかありますか?
川口:福澤先生の考え方は、マスコミとはすごくマッチしていると思いますね。うちの会社も伝統があり、新しいこともやる。「進取の気質と伝統」です。あとは、社内や業界内の仲の良さは、慶應や三田会にも通じると思っています。同期も先輩もそうですし、慶應は、大学時代に知らなかった方々とも三田会ということで親しくなれる。こんな時期に卒業25年の代が、卒業式に入れてもらえたこともすごいなと思いました。卒業後にいろいろな分野に散らばった人がまた一緒に協力して、横のつながりでできることがいっぱいあるのかも、というのはすごくありがたいと思います。
湧永:最後に同期に締めの言葉をお願いできますでしょうか?
川口:コロナで大変ですけど、会えるようになったら、みんなで集まれるありがたさを噛みしめたいですね。こんな歳ですからお互い何あるかわからないので、会えるときに会っておきたいなと思います。
湧永:ありがとうございました。
山上:ありがとうございました。