私の履歴書 シリーズ8 髙木大成:ブルーレッドアンドブルーからライオンズブルーへ。社員になって感じる慶應のネットワーク。
髙木 大成(たかぎ たいせい)
株式会社西武ライオンズ 事業部部長
1973年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学総合政策学部卒。桐蔭学園高校時代に主将として甲子園出場、慶應義塾大学野球部でも主将を務め、95年ドラフト1位で西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)入団。「レオのプリンス」としてファンから親しまれ、97年と98年のリーグ優勝に貢献するなど、ライオンズを主軸として支えた。2005年に現役引退後、西武ライオンズ球団職員として営業やPR等の事業に携わる。2011年、プリンスホテルへ異動。約5年間ホテル業務を経験した後、2017年より再びライオンズ球団職員となり、現在に至る。
インタビューアー
山上 淳 (医学部卒。東京女子医科大学皮膚科准教授。髙木大成さんが野球部主将の時の應援指導部主将。慶應義塾高等学校卒。)
川口 幸一郎(経済学部卒。五條製紙株式会社代表取締役社長。髙木大成さんが野球部主将の時の野球部主務。慶應義塾高等学校卒。)
『プロ野球チームの社員』発売 おめでとうございます
山上:大成さん、今日はお忙しいところ、本当にありがとうございます。
髙木:よろしくお願いします。
山上:まず、本の出版おめでとうございます。
髙木:ありがとうございます。
山上:『プロ野球チームの社員』を読ませていただきましたが、すごく興味深い内容でした。この本を書くきっかけになったのは何だったのでしょうか?
髙木:元はWebメディアの取材だったんです。それを積み重ねていく中で、せっかくだから書籍にしてみないかとお誘いをいただきました。「球団職員の世界」というタイトルで、インターネットで何回かに分けて配信していただいたのが最初ですね。
山上:その内容よりもかなり肉付けされているんですよね?
髙木:もちろん。書ききれないし、もっと深く掘り下げていった方が面白いよね、という話から書籍になりました。
山上:前半部分は球団のビジネスの話とか、どうやって番組を作って売っていくかとか、相当勉強されたことなんでしょうね?非常に詳しく書いてあってすごいなと思いました。プロだから当然といえば当然なのでしょうか。
髙木:ご存じの通り、勉強ができるわけではないので。
山上:いやいやいやいや!
髙木:先輩などに教えてもらいながら、とにかくまず最初は先輩についていくことから一生懸命やっていました。ある程度したら自分のものを肉付けしていくという感じでバリューアップしていきましたね。
山上:選手を引退された後は、球団運営ビジネスのプロになられたので、相当詳しく切り込んでやっているんだなぁというのを見て取りました。僕は素人だからかもしれませんが、プロからするとまだまだこれからなんでしょうか?
髙木:まだまだ。
山上:まだまだですか?
髙木:そうですね。
山上:後半に書いてあるボールパーク構想もやはり、10~15年くらい前からそういう構想があったのでしょうか?
髙木:西武ライオンズというチーム名から、埼玉を頭につけて、埼玉の球団として根付いていこうとなったのが2008年からでした。2014年頃から本格的にボールパーク構想がスタートして、2021年の3月にフルオープンしました。
山上:新型コロナウイルス流行のことがあって残念ですが、これから状況が改善してきたら、きっと花開くんですね。
髙木:そうですね。そうなってほしいな、と。今だと少ない時は5000人という規制の中でやっているのですが、球場自体は3万人入るスタジアムで、お友達と来たりとか、家族と来たりとか、恋人同士で来たりとか、色々なタイプのお客さまがいらっしゃいますので、ニーズに合わせた形に変えています。そういったところを楽しんでもらえれば、と。
山上:今回、本をこのタイミングで出したのは、2021年のボールパーク構想に合致したタイミング、というのもあったのでしょうか。
髙木:そうですね。この本を発売したのが4月だったのですが、開幕戦が3月26日からだったので、だいたい合わせられるような形で発売をしました。
山上:やはり2021年シーズンにかけるものがあったわけですね。早くコロナウイルスが落ち着いてくれないと困りますね。
髙木:頼むよ(笑)
山上:いやー、僕は皮膚科医だからなぁ(笑)
父は審判、母はスコアブックを片手に応援 監督の家には手作りブルペンも。周囲のサポートに支えられたリトルリーグ時代
山上:さて、大学に入るまでの話を少しできれば、と思います。この本の中にも、プロ野球選手になるまでの話がかなり書かれているので、詳しい内容は本に譲るとして、実はこういうことがあったんだよ、という裏話的なものを加えていただければと思います。子どもの頃、リトルリーグに入った時の話なのですが、入ったのは2年生でしたっけ?
髙木:2年生の秋に入りました。
山上:その時、お兄さんはボーイスカウト?
髙木:そうですね。
山上:「お兄さんに申し訳ないという気持が少しある」と書いてありましたが、大成さんにお父さんもお母さんも付きっきりで。
髙木:リトルリーグに入ってからは毎週私に付いてくるという生活だったので、土日は兄は一人でしたね。
山上:お父さんは審判をやって、お母さんはお弁当を作ったりとかですか?
髙木:母は応援しながら試合のスコアブックを書いていました。だからそれが多分実家に溜まっているんじゃないですかね。
山上:すごい気合が入っていますね。
髙木:そういう感じでしたね。母はお茶当番などもありつつ。
山上:リトルリーグは結構親が大変ですもんね。
髙木:父はグラウンド整備はもちろん審判もやっていました。
川口:まさに今の私ですね。
山上:僕も最近までやっていました。リトルリーグは硬球ですよね?
髙木:そうです。
山上:審判は結構怖いですよね、きっと。
髙木:怖いと思います。
山上:お父さんは球審などもやっていらしたのですか?
髙木:やっていました。
山上:塁審だったら、まだリスクが低そうですが、球審はファウルが結構当たりますもんね。
髙木:私も仕事をするようになって分かりましたが、平日は仕事をして、土日は朝早くから子どもの野球に付き添っていたのはすごいなと今になって思います。
山上:この本にも書いてありますが、指導者の皆さんもそうですよね。
髙木:そうなんです。指導者は給料をもらっているわけではないですからね。野球が好きでボランティアでやってくれているというのが本当にすごいなと感じます。実際に野球部だった人がみんなコーチをやったりしていますが、よくやれるなぁ、すごいなぁと思います。
川口:私は、息子のチームの練習につきあってキャッチャーを1時間やって、腰が痛くて死にそうです。ボール取れないし(笑)
山上:大成さんが4年生の時のリトルリーグの監督さんは、家にブルペンを作っていたんですよね?
髙木:家にブルペンとティーバッティングができる小屋を作って、月曜日以外の火水木金は全部そこでやって、土日はグラウンドでやっていました。
山上:ほとんど体育会のような生活ですよね、小学生から。
髙木:本当にそうです。学校が終わったらすぐそのままトンボ帰りでしたね。
山上:中学の時の監督さんはバッティングセンターを経営していて、大成さんは通い詰めだった、と。
髙木:これは楽しくて仕方なかったですね。バッティングセンターをタダで使えるので。嬉しいですよ。
山上:本でも書いていますが、情熱ですね、やはり。
髙木:本当にそうです。中学の時の監督は、今も監督をやっています。なかなかできるものではないですよね。
山上:お金がもらえるわけではないですもんね。多少、お歳暮やお中元はもらえるかもしれませんが、それでは食べていけないですしね。少年野球の指導者の皆さんには、本当に頭が下がります。
葛藤した桐蔭学園時代 いかにして最後の夏を戦い抜いたか
山上:そして高校に入ってくるわけですが、大成さん率いる桐蔭学園がどうやって甲子園まで行ったかというのは、この本の中でもかなりのページが割かれていて、すごく興味深く読むことができます。3年生の時は圧勝だった印象がありますが、相当な葛藤があったんですね。
髙木:そうですね。個性豊かなメンバーが揃っていたので。中学のリトルシニアリーグの時に戦っていたチームの良い選手が集まってきていたんです。だから、1年生の時に、「このメンバーだったら3年生になったら甲子園に余裕で行けるな」と思っていましたが、蓋を開けたらそんなにうまくはいきませんでした。2年生の秋が終わってからの冬は本当に悩みましたね。
山上:2年生の秋でうまくいかなかった後の、チームの立て直し方が本にも書かれてあり引き込まれました。桐蔭学園の土屋恵三郎監督は高校生の話を相当聞いてくれる人だったんですね。
髙木:慶應でも活躍された志村亮さん(1989年慶應義塾大学卒)の時に出場して以来、桐蔭は夏の甲子園から遠ざかっていましたからね。土屋監督としても、甲子園に出場させることができていないという悩みもあったと思います。そういった中で、話を聞いてくれる形になったのかもしれません。
山上:おそらく土屋監督としても、間違いなく大成さんたちの代に相当期待していたのでしょうね。とにかく甲子園に行かせてあげたいというのがあって、そこで思いが一致したのが最後の夏だったのかなとも読めました。
髙木:細かいところですが、練習中は「水を飲むな」から「水を飲まなくてはいけない」という考え方に変わってきたりとか、投げ終わった後にアイシングをするようになったりとか、スポーツ医学が発展してきたタイミングだったというのもあるのかもしれません。根性論だけではなくなってきたというか。その黎明期であったのは事実ですかね。
山上:大成さんの桐蔭学園と同じ神奈川県にある高校の川口さんは野球部、僕は應援指導部でした。僕らは桐蔭に当たる前に湘南工科大付属に負けましたが。
川口:大成さんは、まさに憧れでしたよ。
山上:憧れでしたね、本当に。
川口:めちゃくちゃ強かったですし。あと2つ勝てば桐蔭とぶつかるところでしたが、2つなんて勝てるわけがない。
山上:あと2つで当たるはずだったのかぁ。
川口:行けるわけないけど(笑)
髙木:武相と闘ったから、俺らは。
山上:武相はダークホースだったと大成さんも言っているので、僕たちの高校は横浜とY校と違う山にいたから、うまくいけば桐蔭と当たるまでいけたかな?でも、いけないねー。
川口:湘南工科に勝って次は桐光だったんです。桐光は今みたいに強くなかったので。
髙木:俺たちの時は強かったよ、桐光。
川口:ベストエイトまでいったよね、あの時。
髙木:桐光の左ピッチャーが故障していたから俺たちが勝てたけど、あのピッチャーが故障していなかったらヤバかったもん。
川口:手を折ってしまったんだよね。
髙木:そうだよね。右手を折っていたけど、左腕だからなんとか投げていた。
山上:そうだったんですね。
川口:武相とは大会前に練習試合をやったんですよ。たまたま勝ったんです。ところが、そこから逆に調子が落ちてしまって全然ダメ。
山上:「甲子園への道」で盛り上がっておりますが、ぜひこの本で桐蔭がいかに最後の夏を勝ったかというのを多くの方に堪能してほしいですね。すごく読み応えのある内容になっています。最後のところで高橋由伸選手(1998年慶應義塾大学卒)が現れるとか、色々な物語があって。ぜひ読んで欲しいですね。
学生主体のエンジョイ・ベースボールに惹かれて慶應へ アメリカ遠征で実感した三田会のすごさ
山上:さて、その後、大学への進路の話になってきます。本にも書いてありますが、ご両親を含め六大学野球や早慶戦への憧れが強かったというのがあります。いつ頃から意識をするようになったのでしょうか?
髙木:中学の時ですかね。
山上:早いですね。
髙木:中学の時に、甲子園にも行きたいけど、できたら早慶戦も戦えるような学校に行けたらいいなと思っていました。
山上:2校しかないですもんね(笑)
髙木:野球の推薦で行けるところが条件としてある中で、ちょうど中学の2年から3年になる時に桐蔭学園が選抜ベスト4になりました。
川口:宇佐美尊之さん(1993年慶應義塾大学卒)とか。
髙木:そうです、宇佐美さんの時。そして、「桐蔭というところがあるんだなぁ。ここはすごい進学校だなぁ」と思って、慶應に先輩がいるというのもあって桐蔭を選びました。
川口:その時のエースピッチャーの渡辺功児さん(1993年早稲田大学卒)が早稲田でしたね。
髙木:早稲田でしたね。実は高2の時に、土屋監督から「早稲田を受けたらどうだ」と言われたんですよね。でもやっぱり早慶戦を観ていると、早稲田と慶應は全く違う野球をやるじゃないですか。早稲田はどちらかというと、監督がトップで昔ながらの日本の野球スタイル。慶應はどちらかというと、学生が主体となってやっているのがすごく感じられて、慶應の大学生がとても大人に見えたんですよね。そういったところにすごく魅力を感じて、早稲田ではなくて慶應に何とか入る道はないかと探して、SFCのAO入試を紹介してもらったんです。
山上:たらればの話ですが、プロに高校から直接入るルートがもしあったとしたら、変わっていた可能性はありますか?
髙木:どうなんでしょう。まだ体も出来上がっていないし、そのままプロに入ったら、それはそれで故障して終わってしまっているかもしれないです。一方で、大学時代はそんなにトレーニングの施設が整備されてなかったので、体を鍛えるという点だとプロに行った方が良かったのかもしれないですし。どっちが良かったというのはないですかね。
山上:こうやって僕たちが話しているのは、大成さんが慶應に来てくれたからなので、とても嬉しいですし、それ以外の選択肢は想像しにくいですけどね。
髙木:野球だけじゃないですからね。
山上:大学に入って「エンジョイ・ベースボール」に触れて、それは高校時代に想像していた通りでしたか?
髙木:まさに。学生主体でやっているんだなぁというのはすごく感じられました。また前田祐吉監督は包容力があり、厳しく言うところはしっかり言うので、学生と監督がすごく良い関係にあると感じました。
山上:3年生の時に後藤寿彦監督になりましたが、あまり変わりませんでしたか?
髙木:その時はまだ前田監督のカラーを大事にされていたと思うので、我々の頃はそんなに後藤監督の色はなかったですかね。
山上:替わったばかりでしたもんね。
髙木:どちらかというとの由伸の時からですよね、後藤さんのカラーが出てきたのは。グラウンドを人工芝にしたり、トレーニング場もしっかり作ったりとか。
山上:3年生から完全にキャッチャーになったんですよね?2年生までは伊藤竜一さん(1994年慶應義塾大学卒)がいたから。
髙木:そうです。
山上:そこでちょうど後藤さんへのチェンジでしたが、影響は何かあったのでしょうか?
髙木:まだそこまでなかったですかね。
山上:そして4年生ではキャプテンになりました。
髙木:キャプテンとして何を求められたのかなと考えると、やはり優勝というものをみんなに味わってほしいなというのがあって、私が選ばれたと思いました。
山上:プレーでは、4年間にわたって大成さんが引っ張っていたのは間違いないですからね。
髙木:いやいや、厳しくね、川口さん。そんなに厳しくやってなかったっけ?
川口:俺はマネ室にいたから、よくわからないなぁ(笑)。野球部時代は、1、2年生の時は上の4年生3年生に色々教えてもらいながらやりました。大成さんは藤沢だったから、通学が結構大変だったのではないでしょうか。授業もちゃんと出ていましたからね。
山上:授業には出ていたんですね?
髙木:練習をサボっていたんじゃないの?(笑)
川口:ちゃんと出ていたでしょう。
髙木:野球部で印象に残っているのは、アメリカ遠征に行きましたよね。
川口:1995年2月から3月にかけて1ヵ月ですね。
髙木:試験が終わった後でしたね。3年生の。
川口:あれはカルチャーショックでしたよね。
髙木:そこでやはり、同級生とも衝突したんですよね。というのも、キャンプに来ていたので、優勝するためにトレーニングをしに来ているというのが私の中にはありました。しかし、同級生の中では、もちろんそれは分かっているけど、異国でカルチャーに触れるということもすごく大事だと。そこで、アメリカで一回衝突したことがあります。みんなで一つの部屋に集まって、どうする?と話をしたことはありますね。
山上:その時はアメリカのどこに行ったんでしたっけ?
髙木:あの時はロスに行って……
川口:アリゾナ、シアトル、サンフランシスコ。
髙木:全部西海岸ですね。
山上:アリゾナは暖かくて、メジャーリーグのキャンプ地としても有名ですが、サンフランシスコとかは寒くないですか?
川口:シアトルはドーム球場で試合をやりました。
髙木:三田会のすごさですよね。全部三田会がマネジメントしてくれました。アリゾナ州立大学とかUCLAとか、強豪と試合させてもらったり。
川口:ロサンゼルスとサンフランシスコの三田会は確かパーティーをやってくれましたよね?
髙木:やってくれました。
川口:シアトルもやってくれましたよね。すごかったですね。
髙木:当時はそのすごさが分からなくて、行けば試合をやらせてくれるんだ、みたいな感じで(笑)
山上:そうなんですよ、当時は分からないんですよね。学生を迎える準備のために、三田会の人たちがいかに苦労しているかとかは。
髙木:今となっては、各都市にちゃんと三田会があって、そういう人たちがサポートしてくれて、パーティーまでやってくれてとか、本当にありがたいことだと思います。
川口:一人、アリゾナで歯の被せ物が取れてしまって。その時も病院を紹介してくれたのは三田会の人だったような気がします。
山上:宿舎なども三田会が?
川口:三田会の人に相談して、ここの場所がいいとか色々と教えてもらったりしました。
髙木:治安とかも含めて、全部コーディネートしてもらって感謝しています。
山上:アメリカ遠征にも三田会のサポートがあったというのは素晴らしい話ですね。
サラリーマンになったときパソコンに違和感がなかったのはSFCのおかげ
山上:さっきのキャンパスの話ですが、湘南藤沢キャンパスには結構行っていましたか?
髙木:藤沢は、4年生の春学期で頑張れば卒業単位を全部取り終えられるというカリキュラムでした。夏以降は野球に集中したかったので、なんとか前期で終わらせたいというのが私の目標の中にありました。
山上:4年生の前期で?その目標は達成したのでしょうか?
髙木:しました。
山上:さすが!狙いをつけたら外さないという。この本にも書いてありましたけど、さすがです。
髙木:でも本当に学校の仲間には助けてもらいましたね。
山上:何か思い出に残っている授業はありますか?テストとかレポートとか、SFCでの学生ライフで思い出に残っていることがあれば。
髙木:一番はパソコンの情報処理ですね。S言語やC言語などをやる環境にあって、最初は「???」という感じでしたが。今でこそワードやエクセルですが、プログラミングの初歩みたいなものに触らせてもらったおかげで、サラリーマンになっていきなりパソコンを渡されても違和感がありませんでした。キーボードに触ることには抵抗感がなかったので、そこは助けてもらったところです。
川口:あの頃は、確かEメールもSFCしかなかったですからね。
髙木:レポート提出もワープロや手書きはダメでしたからね。メールだったり、全部この形式で出しなさいというものが決まっていたりとか。
山上:SFCはそういう意味では相当進んでいましたね。
髙木:私はSFCの3期生だったので、4年生がいなくてガランとしていましたね。あとやはりカルチャーショックだったのは、帰国子女が多かったので食堂で英語が飛び交っていることでした。
山上:やはりそうなんですね。三田や日吉は、全然そんなことないですもんね。SFCってすごいんですね。
髙木:でもSFCとしては、日吉、三田は憧れですよ。慶應に入っても日吉や三田のキャンパスに行くのが年に一回とかなわけですよ。あの銀杏並木を歩くことがほとんどないという。
山上:毎日、日吉の野球部の合宿所にいるのにねー(笑)。僕ら應援指導部は、どうやって神宮に塾生を呼ぼうかとか、そういうことを川口さんと相談しに野球部の合宿所に行っていました。ファン感謝デーみたいな企画もやって、大成さんにサインを書いてもらったりしましたよね。結構思い出に残っています。
髙木:ユニフォームで来て、ビラ配ったりしましたね。
川口:そうそう、日吉キャンパスで。
山上:他に学生時代で一番印象に残っていることはありますか?
髙木:なんだろうなぁ。SFCの仲間と湘南の海に行ったことですかね(笑)。海開きの時に野球部の同期と行ったり。学生の時は、試験前には友達に先生になってもらって教えてもらったりとか。なんとか単位を取るために必死でした。
プロとして毎日コンスタントに活躍するには苦悩も。 3番バッターとしてイチローと対決
山上:僕たちの卒業式の夜に、当時あった園遊会で、大成さんと話したことを今でもよく覚えています。すでにライオンズのキャンプが始まっていたので、「どう、プロでできそう?」と聞いたら、「プロの選手は体力がすごい。」と言っていました。大成さんとの、学生最後の思い出ですね。大成さんでもそうなんだな、と。上には上がいるというか。この本でも、「超一流との出力の違いを肌で感じた」と書いてありますが、読んだ時に園遊会での会話を思い出しました。
髙木:本当にそうですね。毎日試合に出てコンスタントに活躍するというのは、本当に大変なことですね。でも、社会人になったらみんなそうなのではないでしょうか?例えば、お医者さんだったらお医者さんで、毎日コンスタントにちゃんとやらないといけないわけですし。
川口:ちゃんとやってね(笑)
山上:やってるやってる(笑)。今日も午前中ちゃんとやっていましたよ(笑)。ただ、仕事の体への負担というのものは、野球選手とは違うと思います。大学を卒業してプロに入る時に、相当色々なものを感じたのではないかなと思いました。
髙木:体力のなさは感じましたね。これは仕方がないといえば仕方がないですが。大学は春と秋しか公式戦がないわけじゃないですか。そこは大きな違いですかね。土日しか試合がないのと全然違います。
山上:でも毎日練習はしているじゃないですか。やはり練習と試合とでは全然疲労感が違いますか?
髙木:全然違うし、レベルも違います。プロ野球の場合は試合の前も練習していて、その練習が学生の時よりもキツイので、全然違いますね。
山上:それでもプロ野球選手として活躍されました。プロ入り2年目の1997年には、ライオンズで3番を打っていましたよね。当時、すでにイチロー選手はレジェンドとなっていましたが、パリーグの打率10傑でも1位イチローで2位が大成さんだった時期がありましたよね。「大成、すげー」と、心から応援しました。あの時は、ちょうどライオンズでは世代交替の時期で、大成さんと松井稼頭央選手をツートップみたいにして売り出してましたよね。その時の良い思い出はありますか?
髙木:キャッチャーからファーストにコンバートというのが非常に大きな出来事でした。それがなかったら、バッティングでそこまでのアベレージを出すこともなかったと思うので、そこは大きいですかね。
山上:2年目からファーストにコンバートされていましたもんね。
髙木:2年目の5月、福岡ドーム(福岡PayPayドーム)の隣のホテルで東尾修監督に呼ばれて。
山上:それはやはり打力を活かすという意味では大きなポイントでしたか?
髙木:でも、ファーストは外国人だったりとか、長距離ヒッターがだいたい守るポジションなので、次の年にそういう選手が入ってきてしまったら、もう出るところがなくなってしまうんです。そうした不安もありながら覚悟を決めてやりましたね。
山上:キャッチャーへのこだわりもあったと思いますし。
髙木:キャッチャーは好きだったし、やってみたいというのもありましたが、1年目で60試合ほどやらせてもらって、伊東勤さんと技術が違うのはもちろん仕方ないとして、私の方が若いので体力もあってしかるべきなのに、体力的にも全然敵いませんでした。当時、135試合にコンスタントにキャッチャーとして出るというのはすごいことだなと1年目で感じました。
山上:プロ野球選手として一番印象に残っているのはどんなことでしょうか?
髙木:唯一、1試合で2ホームラン打った時がありました。イチロー選手が、対戦相手のオリックスの3番で、私はライオンズの3番でした。試合に勝った翌日の新聞で、イチロー選手が「今日は3番の差が出たな」とコメントしてくれていたことが嬉しかったです。
山上:一瞬でもイチロー選手に勝った!というのは、なかなかないですよ。間違いないです。そういう瞬間があっただけでも、本当にすごいと思います。
川口:すごい!めっちゃすごい!
山上:慶應での野球部のことでも大学のことでも、選手時代に役に立ったことはありましたか?
髙木:木製バットというのが一番大きいです。技術的なところでいうと、木製バットで4年間やってきたというのは非常に大きいです。あと、慶應では自主性というものをすごく大事にしていました。プロに入ったら当然のことなのですが、やはり高校生上がりの選手は、最初は言われるまで自分で動けなかったりするんですよね。それが、プロになると自分で全て動いていかないといけない。時間だけが決まっていて、あとは全て自分でやっていくというスタイルなので。そこに専門のコーチが待っているような状況です。そういう意味では自主性を重んじてくれていた慶應のプレーはすごく役に立ったかなと思います。
山上:バッティングフォームなどは、ほとんど小中学校の時に固まっていたと本にも書いてありましたが、大学で得たものもあったわけですね。
髙木:慶應の時は正直、すごいバッティングに悩んでいました。ただ2年生の冬からナショナルチームに本格的に入って、リーグ戦がない時にいつも召集されて出ていました。そこに仁志敏久さん(1994年早稲田大学卒)や井口資仁さん(1997年青山学院大学卒)がいたりして、そこでの練習は役に立った部分がありますかね。
山上:慶應を代表してジャパンに行っていたわけですもんね。
髙木:慶應時代、野球の技術的なところはずっと悩んでいましたね。バットの形状が大学4年生の時にしっくり来て、それをずっとプロでも使っていました。やはり木製バットなので、木の太さや材質でバランスも変わるし、バットのしなり方も全部変わってきてしまうんです。そのため、なかなかしっくり来なくてずっと悩んでいたのですが、最後、4年生の時にこれだというものが作れたんですよね。
山上:丸3年必要だったということですもんね、きっと。それは興味深いですね。
髙木:なかなか難しかったですね。
山上:選手として一番思い出に残っているというか、相性の良かった球場は西武ドームですか?神宮?甲子園?どれでしょう?
髙木:実は、神宮は苦手だったんです(笑)。神宮と西武球場は相性があまり良くなかったんです。西武ドームになってからはまぁまぁ良くなったのですが。屋外球場は、水はけをよくするために、マウンドが一番高く、ファウルグラウンドに向かってマウンドから全部傾斜になっているんです。そうではなくて、私が好きなのはフェアグラウンドまで平らで、マウンドがポコッとなっていて、イベントができるようにマウンドが上下するドームです。神宮球場は、ピッチャーがすごく近く見えるんですよ。
山上:東京ドームとかが良いんですね。
髙木:東京ドーム、福岡ドームはすごく相性が良かったですし、大阪ドームも相性が良かったです。
山上:神宮と西武ドームも違うんですか?
髙木:西武球場の頃は屋根が無い状況で、マウンドが一番高かったので距離感が掴みづらかったのですが、屋根がついてからはまぁまぁでした。でも、そんなに得意ではなかったですね。
子供たちが安心して夢を追いかけられる環境づくりを
山上:選手を引退されてから社員になるところのエピソードは本に書いてあるので、それもぜひ読んでいただければと思うのですが、球団の仕事をする上で、慶應との繋がりを感じたことはありましたか?
髙木:やはり西武グループで慶應の方が声をかけてくれるのはすごく嬉しいです。「俺、慶應なんだよ」とか。実際に應援指導部の大先輩の太田秀和さんがライオンズの社長になったりもしていたので、みんな慶應愛を持っていました。そういう仕事以外の話で盛り上がれるのは良いかなと思います。
山上:さっきのパソコンに少し慣れていたという他にも、何か慶應で経験したことが仕事に活きた例はありますか?
髙木:勉強しなかったからなぁ(笑)
山上:結局大学って、人との繋がりやそういう部分になってくるのかなと思いますね。大学の時、僕もあまり勉強しなかったですし、学んだこと自体はそこまでではなくて。僕は應援指導部だけど、課外活動で学んだことも含めて慶應だとすると、これまでの25年を振り返ると、そこが非常に大きいのかなと思います。
髙木:むしろ今になってもう一回SFCの勉強をしたら多分面白いだろうなと思います。あの頃のSFCは、実際に最前線でビジネスをやられているような人が講師になって来たり、加藤寛さんが学部長だったりしていますし。そう考えると、学生の時だともう一つ入ってこなかったけど、今になると「あの時やっておけばよかったな」というものが結構あります。
山上:村井純さんも、インターネットの世界では有名ですが、そういう人たちが教鞭をとっていたというのはすごいですよね。
髙木:TVのプロデューサーとか、すごい人が講師になっているような授業もありました。今私はTVの放映系の仕事をさせてもらっているので、今だったら受けたいなと思います。
山上:大成さんの将来のプランを聞いていいですか?
髙木:野球をやらせてもらってきたので、一番は野球をやる子どもたちを増やしたいというのが根底にあります。そのためにはどうしたらいいのかと考えた時に、どこかでみんなプロ野球選手になることをあきらめてやめてしまうわけじゃないですか。中学生とか高校生でやめていってしまう。大学進学をしないと良い就職ができないと考えてやめる子どもたちや親御さんはいるでしょう。そのためにも、もっとプロ野球のセカンドキャリアを充実させて、夢を追いかけてもいい環境を作れるようになれると良いなと思っています。親御さんたちが、頑張って無理してでも「プロ野球行きなよ」と言ってくれるような。今、プロ野球選手の引退は平均で29歳ですが、その先が不安だから親御さん的にも子供にあきらめさせる、という部分がないとは言えないと思います。プロ野球で夢を追い続けることをできるようにならないと、Jリーグだったりバスケットボールだったり、今だったら卓球もどんどんプロ化していっていますが、そういったスポーツがもっと発展していかないのかなと感じます。日本のスポーツはまだ娯楽で、ビジネスとしてもう一つ確立されていないような気がするので、そこが回っていくといいかなと思います。
山上:安心して夢を追いかけられるように。
髙木:そうですね。途中であきらめなくてはいけないというのは、なんか寂しいなと思います。
山上:アメリカや他の国では、プロになった後の人生設計もうまくサポートするようなシステムがあるのでしょうか?
髙木:年金制度がすごくしっかりしているので、次のことに挑戦できますよね。お金があるので。あとはやはりプロスポーツに対する考え方が国として違うんですよね。4大スポーツとなってくると、扱い方が違うといいますか。
山上:一つのビジネスとして成立している、というか。
髙木:そうです。ビジネスマンとして認められていると感じますね。
山上:野球選手をみんながサポートできるシステム作りができるといいですよね。
髙木:選手のセカンドキャリアを手助けする、というか。「助ける」という言い方は少し失礼かな。
山上:注目度とか、お金が入るための選択肢が増えてくれば、きっともっとみんなが夢を持ってプロ野球選手になれるだろうし、そういう動きが盛り上がってきたら子どもたちにとっては絶対良いですよね。
髙木:子どもたちが夢を持てるような環境作りをしていけたら良いなと思います。
山上:素晴らしいです。
川口:今度うちのチーム来てね。野球部の同期が監督やっているから。
髙木:そっかそっか、了解です。
メットライフドームでお待ちしております!
山上:最後に同期の1996年三田会へのメッセージをお願いしたいです。
髙木:僕なんかもう……
山上:コロナが落ち着いたら、大同窓会というものがあるので、そこにみんなこの本を持って集合しよう、みたいな。
川口:山上が全部注射打ってくれるみたいだから(笑)
山上:その時はもうコロナ収束してるでしょ(笑)。あとTシャツ、SFC出身の竹内栄介くんがデザインしてくれたから。CHANGE&CHALLENGEは、1996年三田会のキャッチフレーズ「自我作古」の英訳なんです。買ってくださいね。では大成さん、同期の人たちへのメッセージと、今の学生へのメッセージをお願いします。「メットライフドームに来てください!」とか。大成さんが言ったら、みんな来てくれると思いますよ。
髙木:もし機会があったらお越しいただけたら。
山上:大成さん訪問企画プロジェクトとかやってもいいですか?門のところでみんなと写真を撮るとか。コロナが落ち着いたらやりませんか。
髙木:こんな奴もいたな、って思ってくれたら。
山上:みんなでメットライフドームに会いに行きます。
髙木:はい。お待ちしております。
山上:今の慶應の若い人たちへのメッセージがあれば。
髙木:皆さん感じていることだと思うのですが、社会人になって初めて慶應のすごさを感じることは何回もあると思います。そういった場に今いるということに自信を持ってもらっていいと思います。大学ライフを満喫してください。
山上:さっきのアメリカ遠征の三田会の話なども、その典型ですよね。今の慶應大学の学生は、大成さんの現役時代とはだいぶ違いますもんね。
髙木:そうですよね。野球部自体も違いますもんね。会社みたいになってきてますもんね。スローガン掲げてやっていますし。
山上:ぜひ頑張ってほしいです。
髙木:慶應卒の選手は本当に今も活躍していますし、楽しみではありますね。
山上:福谷投手とか。
髙木:そうそう。由伸がそのうちまた帰るだろうし。
山上:どこに?慶應に帰る?
髙木:慶應ではやらないんじゃないの。でも慶應で監督やりたいのかな?
山上:大成さんが、塾野球部の監督になる可能性は?
髙木:やってみたいという気持ちはあります。早稲田の小宮山悟監督もそうですが、ああやって超一流で頑張った方が、そうやって大学に戻って恩返しできるのはすごく良い流れになってきていると思います。
山上:ぜひそういうことも将来のプランに入れておいていただけると嬉しいですね。僕らとしても夢がありますね。あっという間に時間が過ぎてしまいました。今日は本当にありがとうございました。
髙木:ありがとうございました。