私の履歴書 シリーズ7 水木貴広:学生時代に目指した海外交流への道 飴細工を通じて実現 ダボス会議へも
(インタビューアー:湧永 寛仁・山上 淳)
水木 貴広(みずきたかひろ)
飴細工師
1971年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学法学部法律学科卒 離島での地方公務員生活の後、昔ながらの飴細工師に転身して20年。国内はもとより中東・ヨーロッパなど海外への出張実演も経験する。町のイベントから首相外遊パーティーの余興としてなど幅広く“和の瞬間芸術”飴細工を披露している。
1浪の末、法律学科へ入学 同級生の影響でボクシングに挑戦
湧永:まずは子供の頃の話から始めさせていただいてよろしいでしょうか。どんなお子様でしたか?
水木:子供の頃は普通ですね。小学生、中学校は公立ですし、高校からは私立に通ったんですけれども、小学生の頃はまあ、どっちかというと目立ちたがり屋ではあったみたいですね。内弁慶で、外面は格好つけているけど、家では甘えん坊みたいな感じだったと思いますね。
湧永:子供の頃に飴細工師の片鱗とかそういったのはあったんでしょうか。
水木:手先は器用ではあったと思いますね。父親も電気関係の仕事でしたけど、細かい細工というか工作みたいなもの、例えば何か壊れた電化製品をちょっと分解してみるとか、そういうのに興味を持ったりしていました。残念なことに絵心がないというか、美術系のセンスはありませんでした。
湧永:それは意外ですね。ブログとか見させていただくと、本当にすごいきれいな飴がたくさんあって、ああいう飴は、空間の中で彫刻とかを作るスキルがないと作れないのではないかと思っていました。
水木:絵心があればもっとよかったと思うんですけど、残念ながら私はなくてですね。言ってみれば、職人の仕事ですから、同じものを何百個、何千個と作る。形よく作るのは好きだということだったんですね。で、やっているうちに、ちょっとずつちょっとずつうまくなるので、数年前の自分のものを見ると、ああ、下手くそだねって分かるというか、そんな感じですね。
湧永:飴細工との出会いというのは、子供の頃にあったんでしょうか。
水木:これが大人になるまで、20代の半ばまで知らなかったんですね。それが逆にインパクトになったみたいで、「こんなものがあるんだ」ということで、強く惹かれたんですよね。子供の頃には見たこともなかったし、知らなかったです。
湧永:その辺りの話はまた、後ほどお伺いさせていただきます。その後、慶應の法律学科に入学されていらっしゃいますが、なぜ法律学科へ進まれたのでしょうか。
水木:高校の頃は経済に興味持っていたんですけど、数学がどうも駄目だということで(笑)。方針を転換して、法学部をねらっていって、それで1年目は全部落ちたんですね。1浪して2年目受けたときに、法律と経済と商学部を受けて、全部受かって、それでにわかに迷っちゃって、経済へ行った同級生に相談したりして、経済はどうなんだと聞いたりしたんですけど、最終的に法律へ行ったということなんですね。
湧永:なるほど。大学時代の思い出とかありますでしょうか。
水木:大学時代は、ちょこっとだけボクシングをやりまして、1年間ほど体育会に入ったんですね。ただ、スパーリングやって鼻がちょこっと折れたなというのと、手のこぶしがちょっとおかしくなり始めたぞというのと、何か物覚え――思い出すのがちょっとワンテンポ遅くなったぞみたいな症状が出たりしたので、やめました。
湧永:なぜボクシングをはじめられたのでしょうか。飴細工とは違う分野ですが。
水木:それは、1年先に、要は現役で入った高校の同級生がいて、彼がボクシングをやり出したんですね。近所で高校の同級生3人組でよく夜中まで遊んで、雪降ったら、ゴルフ場にしのびこんでスノボやったりとかしていた仲間なんで、その同級生が始めたということで、自分もちょっとやる気を出してやってみたというわけなんです。
湧永:なるほど。でも、今の高校の頃のお話を伺うと、どちらかというとやんちゃな感じのイメージですね。
水木:でも高校は真面目な進学校でおとなしかったんですけどね。
湧永:なかなか雪のときにゴルフ場に忍び込んでスノボというのはあまりしないイメージが…(笑)。
水木:自分は知らないで連れていかれたんですよ。「近所にジャンプできるところある。行こうぜ」ということで、柵を乗り越えて入るんですね。で、何となく遊んでいたら、ゴルフ場だというんで、ジャンプ台を作って、「すげえ飛べるじゃん」とかおだてられて、コンタクトレンズなくすみたいな――ということもありましたね。
湧永:その仲のいい友人の方がボクシングを始められたんですね。
水木:そうなんです。早慶戦の控えには入っていたんですけど、下手するとその後、プロへ転向したすごい人と当たっちゃう可能性もあったんですね。
湧永:プロになるぐらいの方ですか。
水木:プロになった早稲田の選手がいたんですけど、その人と私の同級生が早慶戦でやって、私はその控えに入っていたので、下手したら殺されていたかもしれないなと。
湧永:そうでしたか。私は多分生まれ変わってもボクシングはやらないスポーツだと思います。
水木:何かきっかけがないとできないですね。あと、そういえば大学時代、その後の新島時代につながるんですけど、サーフィンを始めたんですよね。バイト先の人に連れられて、サーフィンを始めて、学生のときに新島へ一回行って、そのつながりというか、後々公務員になったのが、新島の公務員なんです。
サーフィンにはまり、就活用スーツを買うはずがウェットスーツを購入 お金が尽き、新島に“国の人”として迎えられる
湧永:ちょっとその話も…。何で公務員なのかというところなんですけれども、サーフィンからつながったんでしょうか。
水木:ええ。大学時代、就職活動を一切しなかったんです。その頃サーフィンにはまっていて、半年間サーフィンをしながら、千葉の外房とかを車で放浪していたんですね。お金がなくなると、ものを売ってお金作って、また波乗りして、雨が降ったら本を読んで、晴れたら、波がよければサーフィンして、夕方にスーパーに行って、タイムセールの食事を次の日の昼の分まで買ってくるというか、そういう生活をしていたんですけど、いよいよ売るものがなくなって、さあ、どうしようということで、もうこれはあかん、就職しなきゃいかんということで。じゃ、どうしようかなと思ったときに、公務員に興味があったので、新島へサーフィンに行ったことがあったから、じゃ、新島には仕事がないだろうかと。その当時、イミダス[imidas]の離島情報版で「SHIMADAS[シマダス]」というのがありまして、それを本屋でたまたま見つけて、そこで新島のページを見ましたら、アルバイト情報があったので電話したら、役場の方に電話がつながって、「公務員募集していないんですか?」と聞いたら、たまたま募集期間で、それで受けたという経緯なんですね。公務員については、何か人の役に立つというか、実は大学3、4年のときに一瞬だけ外務公務員の試験を受けようかと思って、自分で経済を勉強していたことがあって。全く興味がなかったわけではなかったので、そこでサーフィンからつながった新島、それから公務員に結び付いて、たまたま受けられる期間中で受けたということなんですね。
湧永:就職活動はされなかったんですね。
水木:しなかったんです。「スーツ買うから」って親にお金借りて、ウエットスーツ買っちゃいまして(笑)。
湧永:売るものを売ってというお話、この当時はまだ飴細工はされていないですよね。
水木:全然やっていないです。学生時代はギターもちょっと…。高校のときからエレキギターをやっていて、高校生で持っている金目のものといったらそんなものですから、ボクシングでこぶしおかしくして、ギターが弾けないといけないというので、そういう理由もあって、ボクシングは挫折したんですが、大学卒業して、半年間ぶらぶらしている間にギターを売ったり、そういうことだったんですね。
湧永:親も驚きますよね…。だって、卒業して3月ぐらいから無職ですよね、その間。
水木:そうですね。四つ上の兄が慶應の理工学部出て、大学院まで行って、一流企業の研究職になったものですから、これは弟は大丈夫だぞということで、ちょっとその辺を緩く(笑)。
湧永:そんなものなんですか(笑)。
水木:後からの理由付けになっちゃうけど、ちょうどその頃、大学入って、父ががんを患って、在学中、3年ぐらいのときに亡くなったというのもあって、ちょっとそこから、何というんでしょう、現実逃避ぎみだったんじゃないかなとも思うんです。受験中に手術をしていたんですけど、大学受かった、よかったねで、その同じ日に父が、「がんだったのよ」と言われて、一瞬で喜び冷めるみたいな。大学受かっても一瞬でしたね、喜びは。
湧永:そうでいらっしゃったんですね。で、さらに新島ですよね。新島の公務員って、何かもう、1人何役もしなくちゃいけないイメージがあるんですけれども。
水木:そうですね。特に私は、いきなり教育委員会というところに行かされまして、なかなか人気のない大変なところで、要はイベント屋さんみたいな、学校で行事があると毎晩ミーティングがある。村に友好町村の子供が来ると、浜でテント立てて、バーベキュー世話してとか、いろいろやるような大変なところで。学校給食を運ぶ運転手のおじちゃんが休むと、私が運転していくんですね。三つ地区があるんですけど、山越えて運転していって、校長先生、教頭先生と職員室で一緒に食べたり、もっと面白いのは学校の教室で子供らと一緒にご飯食べて。離島のクラスなんで、学年二つ三つ一緒だったりするので、そういうところで「たくさんお代わりすると、おじちゃんぐらい大きくなるよ」なんて言って食べて。で、帰ってきて、帰りのすごい坂道があるんですけど、ちょっとガス代節約のためになんて、節約根性出してエンジンを切ったら、エンジンブレーキというのがかからなくなって、ビーッて音がし出して、パニクって新車をつぶすところだったという(笑)。そういう楽しい生活をしていました。
湧永:そうなんですね。しかも、新島へ行かれたことはあったとしても、住まれたことはないわけですよね。新島の人からしたら、東京とはいえ、ちょっと違うところから来た人みたいなイメージですよね。
水木:そうなんです。就職した時、同期で入った島の若者が2人いて。島の役場というと、一番人気の安定職なんですね。その当時の総務課の係長が頑張ってくれて、私を採用してくれまして。成績順で採ってくれたんですね。で、行ってみて、挨拶してみると、おばあちゃんが「いしゃあ(あなた)、国の者(もん)か?」とか言われて。こっちは「国の者」なんですね。ほかの2人は屋号があるから、「俺ぁどこどこの誰だよ」とか言っているんですけど、「あの私、東京から採用で来まして」なんて言うと、「いしゃあ、国の人か?にやあ、新島に婿へ入るだな?」とか言われて。そんな状態でしたね。
湧永:国ってすごいですね(笑)。新島って人口何人ぐらいなんですか。
水木:私がいたときは――隣の式根島というのも含めて新島村なんですけど、新島が2,800、式根島が600ぐらいでしたね。式根島観光協会にも行ったので、なかなか新島村の3地区に住所を置いたことがあるという人間は少ないと思いますね。新島の公務員というのは、何がいいかなと思ったのは、島で診療所が一つだけあって、生まれて死ぬまでそこに暮らす人がいて、焼き場もそこにありますから、生活の全部がそこにあって。この島の中で、自分もその一員となって、島の人のために公務員で働くというのもいいなと思って、それで行ったんですよね、真面目な理由としては。
湧永:なるほど。でも、公務員の後に飴細工師になられていますが、この後、どうして飴細工師になられるんでしょうか。新島の公務員生活からすごい離れている感じがするんですが。
水木:公務員を辞めた後に、世話になっていた方から、「式根島観光協会の事務局長が辞めたから、やってくれないか」と言われたので、式根島の観光協会事務局長というのをやりました。その時に、三宅島が噴火したんですね。地震がひどくて、新島も激甚災害、式根島もすごい揺れまして。もう船は止める、観光のお客さんももちろん入れちゃ駄目ということで、観光がしばらく駄目になったんですね。隣の島の観光協会なんかもなくなっちゃうぐらいで、どうしようということで、観光協会を辞めたんです。
山上:何歳ぐらいの感じのタイムスケジュールなんですか。新島に勤められていたのが23歳ぐらいですか?
水木:役場を辞めたのが平成10年ですね。丸2年でした。それで11年には観光協会に入っています。
山上:2年で相当な食い込み具合ですね、いろいろ話聞いていると。
水木:そうなんですよ。
山上:濃密ですよね。新島、式根島の人間関係が。
水木:バンドも組みましてね。島に屋外ステージがある都のすごい公園とかがあるんですよ。そこで大々的なコンサートをやったりして、それがきっかけで島の子たちがみんな楽器を買い出すという、そんなのがあったり。
山上:すごいですね。
水木:その2年は本当にすごく濃かったです。消防団にも無理やり入らされますし、夜は観光客が山にロケット花火打ち込んで、火事になって出動したり、濃かったですね。ですから、今でもつながりがあります。
たまたまテレビを見ていて目に止まった飴細工 子供のころから身近にあった握りばさみ
山上:じゃ、1998年に新島を辞められて、99年に観光協会。
水木:噴火がちょうど2000年だったと思うんです。
山上:そうですね。観光協会に勤められていたときに噴火に当たって。
水木:噴火しちゃって、もう待ってりゃ揺れるという感じなんてすよ。直下型ですから、もうゴーッと音が先に下から来るんです、島ですから。それですげえ揺れているのに、この震度っておかしいだろうというので、震度計を島に付けたら、めちゃめちゃ揺れていたという話になって。一緒に働いているパートのおばちゃんとかも、「危なくてやっていられません」と言って帰っちゃうし、私1人で電話番やって、がけの下にあった事務所なもので、でかい岩がおっこってきたりして危ないので、観光協会を辞めたんですね。その後、ぼうっとしているときに、たまたま見たテレビに一瞬だけ飴細工が映って、「何だこれは?」ということで、初めて飴細工と出会うということなんです。
湧永:そこがスタートでいらっしゃるんですね。
水木:そうなんです、すごいインパクトだったんですね。ただの真ん丸な飴を、握り鋏一つで細工するんですが、その握り鋏というのが実は自分とても好きで、それがない人はどうやって暮らしていけるんだろうというぐらい、もう何をするにも握り鋏がすぐそばにあるものだったんですね。それは何でかというと、父親がそういう人だったので。父親とダブっているかどうか知りませんけども、父が和鋏がすごい好きだというのがあって、それで手仕事で何かすごいことをやっているというのにすごい惹かれたんだと思うんですね。
山上:お父さんはお仕事に和鋏を使っていたんですか?
水木:仕事ではないんですけど、ささくれを切るにしても、何をするのもちょくちょく使っていたんですね。私も便利に使っていたので。
山上:多分一番身近にあるのは、裁縫の糸切りとかですよね、この和鋏というのは。
水木:そうですね。もうちょっと物がいい感じのやつですね。
山上:切れ味とかがやっぱり?
水木:はい。
山上:僕自身は生活の中に、裁縫の糸切り以外はあまりなかったので、そういう方もいらっしゃるんだなと思って。同じ東京に住んでいながら、ここまで違うって面白いですね。紙を切るのもこの和鋏ですか?
水木:和鋏の方が切れるという頭がありましたから。
山上:家で工作するにも?
水木:そうですね。封筒を開けるのも。
山上:面白いですね。
水木:そういうきっかけというか理由がいろいろ結び付いて、飴細工をやっちゃっているんですね。
山上:それは面白いですね。もともと鋏の幼時体験じゃないですけど、そういう親和性があったから、飴細工を見て、「これだ」というのが何かビビっと来たということなんですかね、きっと。
水木:そうなんだと思います。後から気付いたんですけど、パッと見て、和鋏いいなという見方じゃなくて、そのときは、「飴の真ん丸があんなになっちゃったよ」というのが驚きでしかなかったんですけど。
山上:ブログの鋏の写し方とかも、やっぱりこだわりがありますもんね、本当に。
水木:銀色のやつは名人が作ったやつで、もう望んでも手に入れられないです。
“絶滅危惧種”だった飴細工師 技術は独学で習得 祭の出店を見つけ5,6時間技を見続けたことも
湧永:テレビを見られて、「飴細工、面白いな」と思っても、今みたいにインターネットとかSNSとかないので、どうすればいいのかわからないですよね。
水木:そうなんですよ。何しろ飴細工のホームページを作ったのは自分が最初なので。でもテレビで見た数日後に、世田谷の方の大道芸の祭りで見る機会があって、そこへ行って見始めたら、もう5時間か6時間かずっと見ていたんですね。
湧永:飴細工さんの前でですか?
水木:ええ、ちょっと離れて見ているんですよ。そうするとひっきりなしにお客さんが来て、5時間、6時間とおじさんも飴細工をやっているんですよ。そんな状態のおじさんを、ずっと見ていると、向こうも気が付いて、「この仕事はね、サラリーマンとかできない人には向くんだよね」とか何か、ぶつぶつ言っているんですよ。これ俺に言っているんだろうなと思って見ていたんです。
湧永:そのおじさんに弟子入りされたんですか。
水木:いえ、その人は結局、その後一回も話していないんです。その方は見ただけなんです。
湧永:となると、また違う出会いがあったということですか。
水木:ええ。例えばあっちのお祭りに出ていそうだとかいう目星をつけていって、お祭りを追いかけていくんですね。それで何人か見て話を聞いたりして、見て盗むという感じですかね。中にすごい人がいたりするんですが、すごい人はテキ屋さんなんですよね。だから危うく私もテキ屋に半分足を突っ込んだところで(笑)。
湧永:それはすごいですね。
水木:ちょっと手伝いに来いと言われたので、バックパック背負っていったら、「何だ、その学生みたいな『なり』は?今度お前、パンチパーマかけて、剃り入れてこい」って言われて。でもそういう人が飴細工うまいんですね。ですから、そういう人がやっているところに差し入れのたばこと飲み物持っていって、サクラもするんですよ。真正面で見ていると、人が寄ってくるんですね。で、人垣になったらさっと後ろに抜けて、後ろで見ているか、ちょっと時間つぶしてまた、人がばらけてきたら、邪魔にならないように見にいって。お客さんがわらわら寄ってきて、いっぱいになるとさっと抜けてというのを繰り返していると、ギブ&テイクじゃないですけど、追っ払わないで見ていられたわけなんですね。その内、「仕込み手伝いにこい」と言われて、ちょっと手伝うんですけど、お手伝いが終わると、安い飲み屋に連れていかれて、「今日見たことは、口外したら殺す」って言われて。「でも、仕込みの仕方、知っていましたから」みたいな。その頃もう自分もやっていたので。
湧永:独学でいらっしゃるんですか。
水木:例えば図書館で飴細工のビデオを借りたり、資料を読んだり、人から聞いたり、いろいろ。独学でもできます。私の場合は半々ぐらいな感じですかね。
湧永:こういう職人の世界って、師匠がいて、弟子がいてみたいな、そういうのかなと思っていたんですが。
水木:その辺がすごく緩いんですね。今は教室とかもあるんですけど、自分が始めた頃は、もう絶滅危惧種と言われるぐらい減っちゃっていて。結局自分の子供にちょっと教えて、あとはもうやる人もいないし、おしまいかなぐらいな感じだったんですよ。で、もっともっと前の時代だと、道具一式揃えて、こんな感じだよって教えたら、あとはもう独自にやるという、昔からそんな感じだったらしいですね。逆に今になって、手取り足取り教えるみたいな感じになっているみたいですよ。私の場合もそうですけど、道具揃えちゃって、基本のことが分かっちゃえば、あとはもう逆に独自のものをやった方がいいので。手の指も、私なんか細いほうですけど、ごつい手の人だったら、それなりに味のあるものを作りますし、女性は女性らしいかわいらしいのを作りますし。
湧永:そうなんですね。ブログに書いてあったんですけど、初めてツルが売れていって、「あれがいけなかった。」ってありますよね。
水木:あれは、関西に一時期、住所置いていたときがあって、今はもう無理なんですけど、当時はまだ小学校が終わる時間に売りに行っちゃうことができたんですね。学校の校門から見えない、ワンブロック離れた角を曲がったところとかですね。そういうところでゲリラ的に行ってやるんですよ。そうすると100円とかで売れるんですよ(笑)。子供らもそういうのを知っているので、お小遣い持ってくるんです。
湧永:それで一番最初ツルを作られて、子供たちが「僕も欲しい」「私も欲しい」みたいになっていったという。
水木:そうなんです、そうなんです。その頃1種類か2種類ぐらいしかできないんですけど、ツルと小鳥ができたら、「じゃ、今日は鳥シリーズです」と言って、2種類でやるみたいな。それでも子供らが喜んで買っていくので。それがいけないわけですよね。
ホームページを開設し、口コミで引き合いが ダボス会議でも披露
湧永:では、初めは屋台とかそういうのではなくて、小学生向けからスタートしていらっしゃるんですね。
水木:そうです、そうです。そのうちにホームページを作ったら、やれ東北の幼稚園の先生から問い合わせが来たり、ぽつぽついろんなところから問い合わせが来始めたんですね。
山上:2000年に三宅島の噴火で、飴細工のおじさんのを何時間も見て、飴細工にハマり出したのが2001年頃ということですか?
水木:そうですね。
山上:そうすると、ほとんど30に近いところでかなり一念発起して飴細工始めたということですよね、きっと。
水木:そうなっちゃいますね。
山上:すごいですね。じゃ、ほとんど29歳から始めたとして、大体どれぐらいで――大阪で子供に売るのをやり始めたのは何歳ぐらいの頃だったんですか?
水木:もうすぐですよ。半年経たないぐらいだと思いますよ。
山上:そんなんでできちゃうものなんですか?センスがあったんですね。
水木:いやいや。何というんでしょう。もう突撃型ですよね。
山上:ブログを見ると、火傷が治るまで作れないとか書いてあるので、修行に時間かかるのかなと思ったんですが、そうでもないんですか?
水木:ええ。何というんでしょう。それもありながらですけど、最初はツルしかできなくてやったのかな。それでもやるみたいな(笑)。
山上:じゃ、場数を踏んでとんどんやっていくということですよね。
水木:そうです、そうです。次のときにはもう一種類増えているとか、そんな感じですよね。
山上:それはやっぱり才能があるんですね。
水木:いやいや。何というんでしょう。ほかにやることも…。働いてもいないですから。やることがないわけですよ。
山上:いやいや、それでもすごいですね。
水木:やるしかないということで(笑)。
山上:実演披露は築地本願寺花祭り。2004年からやられているということは、やっぱり3年ぐらいでプロとしても相当なレベルに達していたということなんでしょうね、きっと。
水木:絶滅危惧種でしたから、あまりやる人がいないわけですね。で、自分のところに話が来て、下手だけど下手なりにやるということなんです。ですから、その頃の作っているのを今見たら、「ひゃあー」と思っちゃうと思う。こんなのよく売っていたな、みたいな(笑)。
山上:30代前半の人って、ほとんどもう、一番若手ですよね。きっと。
水木:そうなんですよ。もうおじいちゃん、おばあちゃんの世代が「懐かしい」なんて言ってみていて、やっている人もおじいちゃんになるわけなんですよ。それで、途中の世代がいなくて私、みたいな感じなんですよね。
山上:なるほど。
水木:だから、いい時代でしたね。引退した人がゴロゴロいたので。ちょうど中間世代があまりいなかったんですね。
山上:それでもすごい。ここまでわずか数年でそういうレベルまで達しているというのは、すごいですよね。
水木:技術は伴っていなくても、たまたま運がよかったのは、インターネットのホームページを作って、それが目についたということなんですよね。
山上:それで結構来たと。
水木:はい、はい。
湧永:世界からの「引き」もすごいじゃないですか。ダボス会議行かれていらっしゃいますよね。
水木:ダボス会議は慶應がスポンサーになっているんですよね。名だたる企業の中に大学は慶應だけスポンサーというか支援に入っていたんですよ。そのダボス会議なんかも縁なんですよね。その前の年に安倍総理がローマでやったパーティーでやって、そのときに来ていた外務省、経産省の人が、「あ、これすごいぞ、いいぞ」ということで、ダボス会議に使ってくれたということなんですよ。一回見てもらうと、特に海外なんかで見てもらうと、和風のもので、海外の人に珍しくて、お土産にもなって、日本ならではというか、手先の細かさによさがあって、食べ物でもあるなんていうと、なかなかないので。で、お客さんのウケが本当にいいので、一回見ちゃうと、次もあっちでということになるんですよね。何もなければ、ダボスももう一回あったんじゃないかと思うんですけどね。コロナでつぶれたのは幾つもありますね。
湧永:そうですよね。でも、やはり水木さんの技術がすごいんだと。だってほかの飴細工師さんもいるわけですよね。その中で水木さんがどんどん呼ばれるというのは、やはり技術が突出していたと。ブログで龍とかいろいろ見させていただきましたけど、やっぱりすごい、「これが飴なのか!」という感じですごいですもんね、本当に。
水木:あと、やっぱり自分は1人でも行っちゃうし、男性だから安全面などの心配も少ない。あと、英語は自分なりにちょっと頑張ったので、それもあると思うんですよね。最初は成田から付き添いの人が付いてきたりしてくれたんですが、私の場合中東が多いんですけど、「次回から1人で」みたいな感じで。日本のイベントと変わらずに、急に年末に電話がかかってきて、「年明け、急なんだけど、いついつアブダビのこのホテルで」なんて言って。「車だけ手配しておくんで」とか言われるんです。そして私1人で行っちゃって「おはようございます」なんて、向こうのホテルで挨拶して、それで終わって帰ってくるみたいな感じなので、楽なんですよ。荷物も1人で行っちゃいますから。
湧永:荷物って結構重いんじゃないですか?
水木:めちゃめちゃ重いんです(笑)。最初、異常に重い荷物ということで、空港で止められましたからね。で、開けてみると、プラスチック爆弾みたいな白い塊がごろごろ入っていて。最初はマメタンといって、「Flammable」って書いてある、あぶないそういうものも入っていたので。ちょうどテロの後なんか止められましたね。
湧永:そうですよね。
水木:鋏持っているし。
湧永:そうか。鋏も駄目ですね(笑)。
水木:だからインターネットのホームページというきっかけと、あと英語少しできんじゃんぐらいで重宝されているというのは実際あると思います。外務省のリストに載っているらしいんですよ。一回やると、この人やったよということで、情報が共有されているらしいんですよね。
湧永:それすごくないですか!外務省のリストに載っているって。
水木:自分とあと1人、年配の人が載っているらしいんですけど、そっちの方がまだやっているかどうかですね。引退しちゃっていると、私しかいなくなっちゃうので。
山上:下の世代の方も増えていますか?
水木:増えていると思いますね、特に女性は。
山上:本当ですか。それはいいことですね。
湧永:テレビも相当出られていますよね。
水木:テレビはもう、若い人がやってあげてという感じなんですけど。自分はいいやという感じなので、最近はやっていないですけど。本当にやる人がいなかったので、しようがないですよね。
山上:今、お弟子さんとか取っていらっしゃるんですか?
水木:いえいえ、今いないです、全然。もう自然に増えているので、大丈夫な感じですよね。
山上:やっぱりそういう若い世代も、水木さんみたいに盗むというか、自分でやっぱり磨いていく感じなんですかね、この飴細工という世界は。
水木:人それぞれですね。今、教室もあったりするので、習ったりする人もいるみたいですけど、まあそれぞれじゃないですか。今はYou Tubeとかもありますし、やると思ったら自分一人でできます、実際見にいく機会はもちろん必要だと思いますけど。
湧永:でも、水木さんはその中での頂点ですよね、きっと。若者たちからしたら。
水木:いやいや、とんでもない。
湧永:野球でいえばイチローさんみたいな存在ですよね、本当に。しかもまだ現役ですし。引退していないですし。
水木:いえいえ、もうだんだん出番がなくなってきているんじゃないですかね(笑)。
山上:いやいや、そうは見えないですけどね。
水木:いやいや。だから、あまり人が行かない、できない海外があったらやるという感じで。今までは来た仕事全部受けていたんですよ、割と。ですけど、幸いというか、だんだんやる人が増えてきて、何というんでしょうね。海外の仕事は割ともらっている方だと思うんですけど。本当に暇ですよ、もう。商売替えしなきゃいけないぐらい暇ですから、これは。
湧永:またコロナが落ち着いたら、海外とか必ず呼ばれることになると思いますよ。
水木:そうですかね。まあ、あるとは思うんですけどね。
飴細工を通じて外交交流
湧永:今までいろんな人生の中で、慶應に学ばれたところでこういうところが活きたとか、そういったことはありますでしょうか。
水木:やっぱり慶應に行くような人って、自分外して見ちゃう言い方ですけど、レベルが高いなというのはありますよね。高校からは私の場合、進学校だったので、「レベル高いなあ」というのは感じていたんですけど、中学までなんてのほほんと暮らしていたのが、だんだんそういうレベルの高い中に入っていって、運よく潜り込んだところへ入ってみたら、何かすごいお人たちだなという感じがしましたよね。そこで切磋琢磨して自分も頑張れば、多少は磨かれたんでしょうけど、あまり努力して磨かなかったなというのがありますよね。だから何か活きているかというと、「こういう世界があるんだな」というのが見れたということですね。世の中はこういう人たちが頑張ってくれて、動いているんだろうなと。
湧永:今でも慶應の同窓生などに会われることはありますか?
水木:たまに会いますね。やっぱり高校まで仲良しというのもそうだし、高校の同級生が割と慶應へ行っているので、集まりますね。逆に言うと、飴細工に関して、慶應卒とかそういうのは、プロフィールにも書いていないし、逆に使っていないというか、飴細工は飴細工のことだけでやっているという感じなので。特に形式的には活かしていることはないんですけど、ただ、一つよかったなと思うのは、海外の大使とお話しする機会があるんですよ。外務省の仕事で呼ばれて行きますから、向こうの大使が見にきてくれて、「すごいにぎわっているぞ、日本ブース」なんてことで。終わると食事会に招かれるんですね。それで大使と食事会とかしたり、会話する機会があって、そこで考えてみるに、形は違うけど、日本のPRというか、外交交流ということで役に立っているんですよね。
山上:すごく立っていると思います。
水木:例えば外務専門職、大使館に勤めるとかの道もあったかもしれないけど、それよりこっちの方が合っているんかじゃないかな、みたいな。韓国もそうですし、バーレーンもアブダビも、フランスも大使なんか来てくれて、にこにこ。「これ飴細工っていって…」なんて言って、一生懸命紹介してくれているし、何か面白いですよ。そういうのはよかったなと思いますね。
湧永:今日はどうもありがとうございます、いろいろと貴重なお話お伺いできて。最後に同期の人や慶應の1996年三田会に、締めで一言お願いいたします。
水木:どこかで見かけたら声かけていただければ、すごいやつ作りますので。同級生ですと言っていただければ。
湧永:ぜひ私も。子供がいますので、水木さんの飴細工とか見たら感動すると思いますので。でも、子供って食べちゃうんですよね。
水木:すごいのを「どうだ!」って作っても、パッと見たら、もう次の瞬間食べていたりしますね。自分の子供だったら怒りますよ(笑)。「ただの飴にそんな高い金払ってすぐ食うな!」と思いますよね。
山上:なるほど。
湧永:ぜひリアルでお会いできる機会があれば…。大同窓会を秋ぐらいにする予定なんですけども、その時には直接お会いして、お話しできればなというふうに思っております。今日は、ありがとうございました。