01 未来の命を守るための知られざる戦い 大江知之(薬学部准教授)

「福澤基金」は、慶應義塾創立100年を迎えた直後の1961年、高村象平塾長(当時)によって設置された。咸臨丸乗船を志願するなど海外で研鑽を積むことに積極的であった慶應義塾創立者・福澤諭吉の志を継ぎ、福澤基金では学術研究の振興、国際化の推進を目的として、慶應義塾に所属する教職員・研究者の研究活動を支援している。今回の主役・大江知之准教授が在籍する「慶應義塾大学薬学部」は、2008年に共立薬科大学と合併して誕生したが、1996年三田会メンバーの私たち同期生にとってあまり馴染みのない学部かもしれない。研究者・教育者として、福澤基金を活用しながら活躍する大江准教授に話を伺った。

――先生のご経歴を教えていただけますか。

大江 元々、「薬剤師になりたい」というよりは、「創薬研究にかかわりたい」と思いが強かったこともあり、東京大学薬学部から大学院へと進み、薬学系研究科で修士過程・博士過程を修了した後、研究者の道を歩んできました。卒業後に外資系製薬メーカーであるMSD(米Merckグループ)に就職したのは、アメリカで研究に従事したかったことが大きな理由の一つ。実際にアメリカの研究所での業務も経験することができました。つくばにMerckの拠点となる研究所がありそこに務めていたのですが、2009年に閉鎖が決まり、大鵬薬品工業に移籍することになりました。そんな時に、アカデミアでやってみないかという話をいただき、後進を育てることに興味を持ったことを契機に、慶應義塾大学薬学部へと籍を移して現在に至ります。

――民間企業と大学という異なった環境で創薬に向き合っていらっしゃいましたが、その違いをどのようにお感じになっていますか。

大江 私が東京大学に在学していた当時は、創薬を担当するのは民間の製薬メーカーであり、大学も創薬とは謳っていたもののほとんど基礎研究に終始していました。ただ当時とは状況は変わり、実験の成功確率が低いことや失敗するとまた振り出しに戻ってしまうなど多くの時間を要するため、民間企業でも最初から最後まで一貫した研究開発ができなくなっているのが現実です。最終的に世に出ていく薬を製品化するためには、人を使って臨床試験をおこなわないとなりません。これを実現できるのは、資金力に優れた民間の製薬会社です。我々のようなアカデミア(大学)やベンチャーが見出した薬の種を企業が購入して(ライセンスイン)、それをもとに薬を開発していくのが最近主流のビジネスモデルです。我々は、「有機合成」といって化合物をつくることが専門です。世の中にない化合物をつくっては、病気に対して有効であるかを調べ、効くことがわかれば物質特許をとっていくことになります。特許の存続期間は20年ですので、この間にその化合物に対して興味を示す製薬会社が出てきて、創薬の過程で活用されることをめざしていくのが基本的な研究のスタイルです。

――競争の激しい世界ですよね。そんな中、コロナウイルスに対するワクチンや治療薬などにも注目が集まっています。

大江 そうですね、競争は激しいです。民間の大手製薬会社などでは「化合物ライブラリー」と呼ばれる何百万種類の化合物のストックをもっているのですが、我々が大学で研究する場合には、そうしたバックボーンがありません。そこで、我々のグループでは、既存薬、つまり一般的に製品化されている薬を活用して、その構造を少しずつ変えながら効果を評価しています。最近でいうと、市販化されている「オキシカム」という鎮痛剤の構造をもとにして新しい化合物を創るという手法で、「パーキンソン病」に対して効果のある化合物を創り出すことに成功し、一連の化合物に関する特許をとることができました。パーキンソン病が脳疾患であることを考慮し、脳にしっかり成分が行き届き効能を確保することと、日常的に飲めるように胃腸障害を軽減化することで安全性の確保を意識してきました。


――なるほど、こうした研究にはどのくらいの時間がかかるものですか。また、これによって製品化されるということになるのでしょうか。

大江 企業時代の経験でいえばプロジェクトが立ち上がってからそこそこの化合物ができるのに1〜2年で済むのですが、大学の場合は5年スパンでやっていくようなイメージです。学生と一緒に研究していくため、企業と比較するとどうしても時間がかかります。今後製品化されるためには、特許をとった化合物に対して製薬会社が興味を持って活用してくれるかどうかが今後の鍵ということになります。また、新しい化合物が薬になる過程で、安全な治療に使えるかどうかの実験、治験なども必要になります。ですから、アカデミアでの研究結果と製薬会社側の種やニーズとのニーズとのすり合わせができるような情報交換の場も重要になりますが、その点、慶應義塾の場合、積極的に用意してくれるのでありがたく感じています。

――どのような体制で研究開発に臨まれているのでしょうか。

大江 講座のなかに臨時教員1名を含めた4名の教員がいて、大学院生を中心にチームが構成されています。先に述べたパーキンソン病に対する薬の開発の際には、我々が有機合成を担当し、旭川医科大学でパーキンソン病用のモデルマウスに薬を投与する動物実験を実施するという形の連携をとっていました。規模や環境の面でみると、大手民間企業には全く太刀打ちできません。だからこそ、我々はアイデア勝負をしなくてはいけないと考えています。――そういう中で、大江先生が福澤基金を受け取りになられたのはいつですか。大江5年前、パーキンソン病の薬を開発する最初の段階で、研究奨学金をいただきました。また昨年、特許を取るタイミングでも同様に研究奨学金をいただきました。ともに、150万円から200万円の金額だったと思いますが、研究に取り掛かる時期にこうした研究資金の確保ができたことは本当にありがたく感じました。

――不躾な質問ですが、先生方のご研究にはどの程度の金額がかかるものなのでしょうか。また、研究者の立場から研究奨学金の制度に対してご希望されることはありますか。

大江 内容によってまちまちですので一概には言えませんが、最終段階の臨床試験だと数百億円というレベルで費用がかかることもあります。一方で、我々が行う化合物合成のような化学研究であれば数千万円という規模感で、そこまで巨額のお金が必要なわけではありません。ですから、150万円から200万円という金額も非常にありがたいといえます。ただし我々が研究資金を確保する観点で、金額規模が大きいかどうか以上に、継続的であるかどうかのほうが実は重要だと感じています。金額はさほど大きくなくても継続的に支援していただくことで、研究が進むのではないかと思うんですね。例えば、1年に150万円というのではなく、50万円を3年継続で活用できたり、3年で150万円使えばよいというような研究費の確保ができたりするとありがたいです。かつて、数百万円を4年間のうちに使えばいいという形で資金提供していただいたことが実際にあったのですが、このケースは実際非常に使い勝手が良かったです。

――先生はどんなところにお仕事の醍醐味を感じていらっしゃいますか?

大江 民間企業を辞めて、アカデミアで学生とともに過ごす現在では、彼らが成長したり活躍したりする様子を見るのが非常にうれしいことです。若い人たちを育てていくことにやりがいを感じている側面は大きいと思います。できあがった薬が患者の方々に届くことで病気が治癒していくことに対する喜びやモチベーションはもちろんあるのですが、実際そこに至るまでには非常に長い時間がかかってしまうのが現実です。研究している中で日々出てくる新たなデータと向き合うことは非常に面白いですし、実験を通して効果があったかどうかの反応を見ることが日常的なモチベーションになっています。研究が停滞してしまうこともありますが、なかなか結果が出ないからこそ、ポジティブな結果が出た時の感動は計り知れません。しかも、創薬は1人ではできないので、チームとして力を合わせて成果を出していくことが重要です。そうしてチームとして結果を出した時の喜びもすごくやりがいを感じるポイントです。

――人の命に直結する大切なお仕事にも関わらず、私たちも知らないことばかりだと気付かされました。

大江 コロナウイルスの問題も含めて、皆さんに興味を持っていただきやすい医療の話でありながら、一般的にはあまり知られてない分野なのかもしれません。また、なかなか簡単には成功が得られない分野のため、入学してきた時は研究志向でも、だんだん嫌になってしまう学生が多いのも現実です。研究人口が減っているというのも身に染みて感じています。しかし、我々の研究分野に関する重要性を理解していただかないことには資金確保も難しくなりますので、もっと積極的に広報してもいいのかなとも感じています。私自身は教育がしたくてアカデミアの世界に移ってきました。民間企業にいたときには修士・博士をとった研究者集団の中で仕事をしていたこともあり、大学院で学生と研究しながら成果を出すのは難しいだろうと思っていたんです。しかし、学生たちは真面目に実験をしてくれますし、向上心も高く非常に優秀だと感じています。これも、慶應義塾だからなのかもしれませんね。

(まとめ)

インタビューを通して、大江知之先生の穏やかな物腰と真摯に話してくださる人柄から、学生たちの信頼も厚いだろうことは容易に想像できた。製薬メーカーにおける創薬に関する研究職を経て、現在は慶應義塾大学薬学部で研究・教育に従事しているが、私たちの命を守るために尽力されている研究活動の中で、福澤基金がしっかりと役立てられていたことがわかったと同時に、ひいては業界の未来を担う若き学生たちを育てる教育現場でも生かされていることが実感できたインタビューとなった

【プロフィール】大江知之(おおえ・ともゆき)

1992年東京大学薬学部製薬化学科卒業。94年同大学大学院薬学系研究科生命薬学修士課程修了、97年同博士課程修了。同年万有製薬株式会社(MSD)に入社、つくば研究所創薬研究所で勤務。米国Merck Research Laboratoriesでの研究活動も経験。2009年大鵬薬品工業株式会社に入社,創薬センター分子標的薬研究所で勤務。11年慶應義塾大学薬学部准教授に就任、薬科学科医薬品化学講座に所属。主な研究分野は、化学系薬学、物理系薬学、創薬化学。

インタビュー:石原直子(法学部法律学科)

    構成:中村聡宏(法学部法律学科)