私の履歴書 シリーズ9 永田健:自分らしさとは?グローバルな価値観との出会いが導いたフラメンコダンサーとしての道、そしてその先へ

(インタビューアー 湧永 寛仁・石井里江子)

永田健(ながた けん)

フラメンコダンサー

1973年ドイツ生まれ。慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学経済学部卒。大和証券入社、社費でMBA留学するも中退してスペインへ渡る。約2年の留学の後、帰国。国内で数々の賞を受賞、現在は日本を代表する男性ダンサーとして全国で公演するほか、映像制作、講演、映画出演、執筆など多岐に渡って活動中。マールボロ公式サイトのムービーにも出演中。

引っ込み思案な少年、変化を求め始めたボクシング

湧永:まず初めに、どんなお子様だったかというところからお伺いできますでしょうか?

永田:父親の仕事の関係で、ドイツで生まれました。5歳から10歳まではスイスにいて、割と自由に育ったのかなと思います。今はダンサーですが、小さい頃からシャイで引っ込み思案だったんです。

湧永:そうだったんですか。子どもの頃から自分を表現されてるのかなと思っていたんですが。

永田:実は真逆で、人前で歌うのも絶対嫌だ、と思っていたような子どもでした。海外では学校で劇をやるんですけど、1人で歌っている人を見ると、もうそれだけで尊敬していましたね。そのくらい大人しい子どもでした。その頃の僕を知っている人は、まさかダンサーになるとは、夢にも思ってなかったと思うし、僕自身もそうでした。

湧永:お父様のお仕事の関係で日本に戻ってきて、今度は日本の学校に通われたのですね。

永田:そうです。中学校が地元で、高校からは塾高ですね。

湧永:大学は経済学部に行かれたということで、慶應は全部で7年間ということになるんですけれども、学生時代はどんなことを考えながら過ごしていましたか?

永田:自分を変えたいというのがあって、高校に入ってからボクシングを始めたんです。東横線の学芸大学にボクシングジムがあって、そこのジムに通っていました。大学はボクシング愛好会というサークルがありまして、そっちへ行っていました。とにかく強くなりたいという思いでした。強くなれば自信持てるのかな、という感じでした。

海外をバックパックで渡り歩いた慶大時代、新しい「価値観」との出会い

湧永:ボクシングのほかに打ち込まれたことはありますか?

永田:ボクシング以外ではバックパックにハマっていました。例えば東南アジアに1カ月ぐらい、「地球の歩き方」だけを買い行き先を決めないで旅行をして、知らない世界がいっぱいあるんだなと思いながら、いろいろな国の旅行者や地元の人と話したりしました。それが楽しくなって、休みの度に色んな国に行ったりしていました。自分の知らない国に行きたかったんです。ガンジス川で泳いだり、中国の日雇い労働者の宿に間違えて連れて行かれたりもしました。

湧永:永田さんのYouTubeを見させていただいた時、自分探しについてお話されていましたが、それは自分を探したかったのか、それとも何か新しいものが見たかったのか、どちらなんでしょうか?

永田:どちらもあったかもしれないです。明確に自分探しというわけではないんですけれども、知らない世界に触れたいというのはありましたね。好奇心ですかね。

湧永:素朴な疑問なのですが、フラメンコ以外にもいろいろなダンスがあるじゃないですか。ほかのダンスもそれまでの人生の中で出会ってらっしゃいますよね?

永田:10代の頃は全くダンスに興味がなくて、二十歳ぐらいのとき、サルサが流行って、それを趣味でやっていたくらいです。ダンスとは全然縁がない生活でした。ボクシングをやっていたので、当時と今とではダンスに対する考え方も違っていて、踊ってる男なんて軟弱だ、と思ってました。

拍手喝采!人前で披露した初めての和太鼓

石井:どんな国に行かれたのですか?

永田:東南アジア、インド、中国、ブラジル、そのへんですかね。あとは、大学4年生のときに国が主催している東南アジア青年の船という国際交流事業があったんです。内閣府が主催している事業で、300人ぐらいの青年が一斉に日本丸に乗っていろいろやるというプログラムでした。

石井:紀子様も行かれてますよね。

永田:そうですね。紀子様が乗って少し有名になりました。なので、これはチャンスだと思って行きました。その中で日本の文化を紹介しなければいけなくて、何も日本のこと知らなかったので和太鼓を習って、それを叩いたんですけど、それがすごくウケたんです。そういうところが、もしかしたらフラメンコを見たときに、やろうという気持ちにつながったのかもしれません。

湧永:人前でそういうことをするのは、ある意味人生で初めてだったと。

永田:初めてですね。7人ぐらいで乗る前に特訓していって、大きい太鼓を運んで船内に持ち込みました。あれ、わかりやすいんで、叩くと、おー、となります。

湧永:拍手喝采だったんですね。

永田:拍手喝采でしたね。海外のほうが和太鼓のような日本文化はウケますね。それが人前で感動してもらった初体験ということになりますね。

湧永:そのときどういう気持ちだったんですか?

永田:ゾーンに入った感じでしたね。なかなかフラメンコでも味わえないんですけど、叩いている最中に、見えているものが一瞬スローモーションになりました。

湧永:それはすごい経験ですね。

いったい自分は何がしたいのか?悩み続けた証券マンが出会ったフラメンコ

湧永:大学卒業後、証券会社へ就職されていますが、当時のエピソードをお願いできますでしょうか。

永田:当時人気だった銀行や商社を全部受けて、全部落ちました。そこで1年上の証券会社の先輩に話を聞いてもらおうと思い電話して志望動機を話しました。で、「どうですか?」と聞いたとき、先輩が一言、「でさ、お前何がしたいの?」と言ったんです。それに対して何も答えられなくて、頭の中が真っ白になって、俺やりたいことないんだな、と思ったんです。

 正直、あまりそういう事を考えないで、ずっとその場その場で生きてきて、それで就職活動の時期が来て、当然慶應にいると周りもみんないいところに行って、じゃあ自分も、という感じで受けたけど、結局何がしたいのかわからないままでした。証券会社はそのとき受かったんですが、自分としてはとりあえずやりたいことがない、かと言って誇れるものも何もないから、修行じゃないですけど、何かやりたいことが見つかるまでの修行期間という感じで証券会社に入りました。

湧永:位置付け的には、この道をずっと行こうというわけではなく?

永田:そうですね。まず証券会社に愛着というか、これだというものが全然なかったですし、むしろ嫌でした。とにかくきついというイメージしかなかったんです。なので、結構目の前暗かったですね。これから証券会社か、という感じでした。

湧永:その数年後ぐらいにフラメンコに出会っていますよね。

永田:そうですね。入社して3年目ぐらいですね。

石井:それは日本ですか?

永田:そうですね。友達に大学の学園祭へ連れていかれて、何の興味もなく行ったんですけど、そこがフラメンコサークルが盛んな学校で、学生が踊っているアマチュアの踊りを観ました。証券会社に入ったけどここが一生の場じゃないなというのはわかっていたので、何がしたいんだろうとずっと思いながら、かと言ってそれが何なのか全然わからない。何なんだろう?とずっと思っていたら、後ろからフラメンコが来た、という。真後ろにいた感じだったんです。それで見た瞬間に、直感的にピンと思ったんでしょうね。

湧永:そのあと、仕事に戻られて、しかもMBA留学されてますよね?

永田:そうですね。フラメンコはすぐに習い始めたんですけど、さすがにすぐ会社を辞めるという行動まではいかなくて。でも仕事始めの前日、布団でぼーっとしてて、「会社辞めて、スペイン行きたいな」とふと思ったんです。それは本当に妄想というか、次の日起きた瞬間、そんなバカなこと考えてるんじゃねえよ、みたいな現実に戻ったんです。でもどこか頭の中にずっとあって、なんか辞めたいな、どうしよう?みたいな感じでした。そういう葛藤があったんですが、MBA選抜の通知が来て、それを受けたら受かったんです。そこから自分で受験しなきゃいけなくて忙しくなって、もう受験まっしぐらでした。一応MBA留学というのはしたかったし、目標ではありました。

湧永:MBAには興味があったのですね。

永田:ありました。海外志向が強かったんです。それで2年間夏休みにスペインにも行けるし、サラリーマンやりながらフラメンコやるのも悪くないかな、なんて自分に言い聞かせて、コーネル大学に行きました。大変だという話はもちろん聞いてたんですけど、どこかでちょっと、アメリカンドリームじゃないですけど、新しい可能性が開けるような、そんなイメージと共に華やかなイメージがあったんです。

 それで現地に着いて、パーティでもしてみんな仲良くなろうってやったんですけど、全然集まらなかったんです。あれ?っていきなりコケて。確かに冷静に考えると、周りは1,000万ぐらいのお金を払って入学して、それを回収するためにいかに年収の高い会社に入るかということを考えていて、とにかく一瞬たりとも時間を無駄にしたくないという人たちばかりでした。目がギラギラしていて、お金の話になるとピーンとみんな飛びつくような世界で、全く価値観が合わなかったんです。それで一人浮いているような状況で、そこでまただんだん悩みだして、俺何しているんだろう?と。目標として、自分を鍛えたいというのと、MBA留学をしたいというのがあったけれど、それを果たしたら、じゃあ帰って何かしたいことがあるか?というと特にもないし、しかもそのMBAの世界が自分には合ってないんだというのがわかって、でもMBAやめてスペイン行くって、なかなか勇気がなくてずっと悩んでいました。

 そのときに、長渕剛のステイドリームという歌があったんです。まだカセットだったんですけど、久しぶりに聞いてみようと思って聴いたら、「一番怖いものは、勇気だと知った時、自分の弱さに思わず鼻をつまんだ」、というフレーズがあって、それにガツンとやられたんです。俺、もう気持ちはずっと辞めたがっていたんです。でも辞める理由というか、何かがほしかった。あるいは怖いからやめない理由を探してたのかもしれないと。それで、結局勇気がないだけじゃないかと気づいて、その日にもう辞めようと決めました。とりあえず1年目だけなんとか我慢して、1年目が終わったら会社と学校に連絡をしてやめようと思いました。

湧永:会社もびっくりしたでしょうね。

永田:びっくりしてましたし、いい機会だと思って髪を伸ばして長髪にしていたんです。後ろで束ねるぐらい長髪で会社へ挨拶に行ったので、誰だお前は?という感じでした。それで人事部に行って、なんで辞めるんだ?と言われて、何か上手い言葉が見つからなかったんです。ワクワクすることがしたい、という言い方でしたね。

湧永:フラメンコとは言わなかったんですか?

永田:もちろんフラメンコとは言ったんですけど、その理由は何だ?みたいなことを言われて、説明できなくて、ワクワクすることをしたいと言ったら、ものすごい目で見られたんです。それはMBAに行って、金融の世界の人間が使う言葉じゃないだろうと言われて、確かにそうだなと。金融会社でワクワクするとか、使わないですから。でも自分はワクワクすることをしたかったんだ、だから証券会社は合わなかったんだな、とその時腑に落ちました。

自分らしく生きる フラメンコを踊るとは、自分と向き合い自分と戦うということ

湧永:フラメンコの何が永田さんを駆り立てるというか、ワウワクさせるんでしょうか。

永田:フラメンコってジプシーの踊りで、喜怒哀楽を表現しているものなんです。なので悲しみだったり苦しみだったり、それをバンと爆発させるみたいな、そういう感情を表現する踊りで、かつ足でリズムを打つんです。それって実はボクシングにも共通するところがあるのかなと。昔はサンドバッグを打っていたんですけど、それを足で打っている感じです。ボクシングは相手がいるんですけど、フラメンコはどちらかというと自分と向き合って、自分と戦っている感じです。フラメンコって格闘技に近いのかな、って僕は思っています。あと、日常で感情を爆発させる機会はそんなにないじゃないですか。そういう意味では、僕も普段は割としゃべらないんですけど、思いっきりかけられるというか、生きている実感と言うんですかね。格闘家も多分そうだと思うんです。試合前はめちゃくちゃ怖くて緊張するけど、スポットライトを浴びる感覚がたまらない、みたいな部分があると思うんですね。それに近いのかなと思います。

そしてプロの道へ 日本人ならではの表現で伝えたいフラメンコの魅力

湧永:スペインでの修行はいかがでしたか?

永田:とにかく見るもの全てが新鮮でした。けれども結構難しくて、プロになるのに5~10年かかる世界と言われているんです。しかも僕は20代後半で始めたので、修行期間は長くて、プロになるまで10年ぐらいかかりました。スペインに行ったのが2003年、そこから2013年に日本で一番有名な賞を受賞したんです。日本フラメンコ協会の新人公演という、プロの登竜門のような賞なんですが、それで過去最多得票で賞をとって、日本のトップレベルとして認められるようになった、というところまでで10年でした。

湧永:スペインには日本からフラメンコのダンサーになりたいです、と来られる方は結構多いんですか?

永田:そうですね。日本はフラメンコ人口が世界で2番目に多いと言われていて、実は隠れたフラメンコ大国なんです。しかもちょうど20年前ぐらいがブームだったみたいです。

湧永:永田さんのフラメンコのYouTubeもいくつか拝見させていただいたんですけど、オーソドックスなフラメンコもあれば、和洋折衷じゃないですけど、コラボとか、いろいろなものがありますよね。

永田:そうですね。僕はあまり形に捕らわれず、とにかく見てもらえればいいかなと思って、いろいろやっています。

湧永:初めからそうだったんですか?

永田:原点は、まだ僕がアマチュア時代、水道橋にある小さいスタジオのコンサートで、男性4人の珍しいめちゃくちゃすごいライブだったんですけど、お客さんはせいぜい40人ぐらいしか来ていないんです。その帰りがけに、隣の東京ドームでは韓国のアイドルがライブをしていて、6万人ぐらいのお客さんがいるんです。この差は何なんだろう?と。それから常にどこかで、もっと発信していかなきゃいけないな、というのがあったんです。世界で2番目にフラメンコ人口が多い割には、一般のフラメンコやっていない人にはほとんど伝わっていないな、と。

湧永:中には、そういうのはフラメンコじゃない、という声はなかったんですか?

永田:もちろんあると思いますし、本国スペインでもいろいろあります。まず最初はフラメンコで結果を出すことが大事だと思うんです。その後その道一筋で突き詰める方法が1つ。でも別の方法として、それこそポップミュージックで踊るというのもいいのかなと思ってます。僕自身がフラメンコに全く興味がなく知らずに過ごしてきて、でもそれを見て人生変わっちゃったわけで。フラメンコは世間との溝がすごいんです。ステレオタイプの変なイメージがついちゃっているので、その溝を埋めたいなというところで、僕はあまり手段は問わないです。

石井:2018年に、侍とフラメンコダンサーの対決を描いた「Samurai x Flamenco」、私も拝見しました。

永田:そこは日本人ならではの表現をしてみたいなというのはずっとありました。

湧永:フラメンコと日本の踊りのコラボはなかなか難しいなと思いながら見ていたんですけど。

永田:「日本に恋した、フラメンコ」で踊ったのは、セビジャーナスと言って、フラメンコの初心者が最初に習う曲なんです。とにかく全国で撮影をしたくて、最初は1人で侍のPVとか、雨の中で踊るやつとかを撮って、でも1人でやっているとなかなか広がらないなと思い、どうやったらもっと人を巻き込めるかなと思って、誰でも参加できるようにとセビジャーナスで踊るというのをしました。あれはセビリアの踊りで、型が決まっているんです。

踊るだけじゃない!俳優・映画製作、そして電子書籍出版も

湧永:これからもそういう意味では、新しいフラメンコにどんとんチャレンジしていきたいところですか?

永田:そうですね。自分のような人生を生きている人もなかなかいないと思うので、自分にしかできないことをやりたいなと思って日本中を回っています。これはまだはっきりどうなるかわからないですけど、フラメンコの映画も作ろうと思っています。時代劇で実はフランシスコ・ザビエルはフラメンコダンサーだった、という、そういう話を今練っています。

石井:今プロのダンサーでご活躍されていますけれども、すぐにそうなれたわけではないと思うんです。スペインから帰国されたあと、どういった経緯でフラメンコダンサーになられたんですか?

永田:帰ってきてからは、ずっといろいろな仕事をやりながら練習を続けて、地道にやって、賞とかをとってようやくいろいろなお店から声がかかるようになって、機会が増えていって、という感じで。今はフラメンコと普通の仕事で半々ぐらいな感じになっています。フラメンコだけで生きようと思ったら教室経営にかなり力を割かなきゃいけないんです。日本にフラメンコを習う市場はあるんですけど、エンターテインメントの中にフラメンコが入っていないんです。

湧永:それも不思議ですよね。学ぶ人がたくさんいらっしゃるにも関わらず。

永田:そうなんですよね。そこがやっぱりもともとジプシーの踊りというのと、スペイン語はなかなか敷居が高いというイメージがあって。知り合えば、じゃあフラメンコ見に行こうか、となると思うんですけど、知り合わなかったら見に行こうとは思わないじゃないですか。それが現実なので、そこをどう開拓していこうかなということで、映画を作るのもそういったところからですね。

湧永:ほかにこういうチャレンジしてみたい、という構想はありますか?

永田:ちょうど今はコロナということもあって、映像で何ができるかなということをいろいろやっています。その一環で、フラメンコと他のダンスは何が違うかって、多分ほとんどの人はわからないと思うので、フラメンコを知ってもらうと同時に、僕が世界のダンスをチャレンジするという企画を立ち上げてます。例えば僕がベリーダンスを習って、それを動画に上げるという、本当に個人のTVチャンネルみたいな感じですね。それで全世界のダンスをやってみようかなと思ってます。意外にダンサーでもほかのダンスのことは知らないし、あまり接点ないんです。皆さんがフラメンコわからないように、僕も日舞とか全然わからないです。

湧永:いろいろなダンスの人たちが話し合って、こういう表現もあるんじゃないか?ということもあるといいですよね。

永田:そういうのを僕がいろいろなダンスを体験することで、もしかしたらそういう可能性も出てくるかなと思って、そんなダンスの紹介映像を作っています。あとは、今年の5月27日に、電子出版でタイトルが「20代で好きなことに出会う36の方法」をKindleで出版する予定です。僭越ながらえらそうに、自分がすごく20代で悩んだので、同じような気持ちで悩んでいる人、別に20代に限らないんですけれども読んでもらえたらと。日本という国は海外から見るとかなり特殊な国で、良くも悪くもものすごく特殊な国だと思います。

石井:どういった点ですか?

永田:まず言語が特殊じゃないですか。言語も漢字も特殊だし、あとここまで規律がしっかりしている国も少ないです。全てが安全だし、秩序もあって、それはいいことである一方で、すごくいろいろなものに縛られていて、価値観とかルールとか、親の躾とか世間体とか、今変わりつつあると言っても多くの人が、こうあらなきゃいけないとか、こんなことしたら恥ずかしい、というのがあって、なかなか自分らしく自分の意見を通せないとか、自分らしく生きられない人が多いと思うので、そういう人に向けて、自分の経験も込めて、自分の価値観を持って生きるための自己啓発書を出します。もし40代でもそういうことに興味がある方は読んでいただければと思います。

湧永:海外で10歳ぐらいまで過ごされていることも影響があるんですかね?

永田:それもあるとは思います。小さいときに海外にいたということで、客観的に日本を見れたことは大きかったかなと思います。例えば先輩後輩の関係とか、敬語とか、そういうのも日本と韓国ぐらいだと思いますね。

あと海外は、自分の意見をまず言って、反対意見なければそのまま行っちゃうし、反対意見が出ればそこで話し合えばいい。日本はどちらかというと、反対意見あるかな?ないかもしれないけどあるかなと思ってやめちゃうところがあって、それがもったいないなと思うんです。そういう意味で、僕なんかはどちらかというとまず行動して、失敗したら軌道修正していく。どうやって生きていくんだよ?って散々言われましたけど、なんとかなっています。

フラメンコの架け橋になりたい

湧永:最後は、慶應にスポットを当てたいと思うんですが、慶應で学んだことは何でしょうか?

永田:福沢諭吉先生の本とかを読んで感じるのは、時代を相当先取りして、福沢先生こそ当時の既成概念に捉われない人だったと思うので、そういう意味では自分は慶應に合っていたのかなと思います。この前仕事で中津に行って銅像とか見てきました。あと最近は三田会のパーティで踊らせてもらうこともあります。

石井:若き血で踊りを作っていただくとかは?

永田:考えます。皆さんがフラメンコをやっていただけるのであればやります。

湧永:三田会でも踊られていらっしゃるんですね。

永田:そうですね。パーティで知り合ったいろいろな三田会で踊りました。10年ぐらいずっとフラメンコ一筋だったので、慶應のつながりってすごいな、というのは最近になって感じました。こういうインタビューにしても慶應だったからできたことだと思いますし、そこは本当に両親に感謝ですね。この慶應のネットワークもフラメンコに上手く活用できたらそれはそれでいいかなと思います。

石井:本当に数少ない日本人のフラメンコダンサーとして、これから何に挑んでいきたいですか?

永田:そうですね、先程も申し上げた通り、自分にしかできない生き方もあるし、日本人である自分だからこそできる表現もあると思うんです。そういう意味で最近和とフラメンコのコラボをしているんですけども、日本舞踊を習ってみたり、殺陣を習ってみたり、着物を着てみたり。逆にフラメンコをやっていたからこそ、どこかにコンプレックスがやっぱりあったんですね。スペイン人をいくら追いかけても追いかけても追いつけない。なんで日本人がフラメンコやっているんだろう?と。でも石田三成をフラメンコで演じる機会があって、これって日本人だからこそできるんだ、というのがあって、日本人が踊る意義というのもあるのかなと思って、そのへんを追求していきたいと思ってます。あとは、小学校で子供向けのワークショップをやったり、逆に50代向けに姿勢矯正をフラメンコで教えるということも始めたいですね。そういう意味で、社会人をやってきた自分だからこそできる一般世間とフラメンコの架け橋になりたいな、と思ってますね。あと、慶應で1日でもいいから何か講師ができたら面白いかなと。

湧永:ありがとうございます。では最後、同期に向けて最後に締めの言葉をいただければと思います。

永田:コロナで今みんなが厳しい時代だと思うんですけれども、僕ももちろん厳しいです。仕事も全部なくなっちゃったんですけど、逆にこれって人生を振り返るチャンスでもあると思うんです。コロナでもないと自分の生活とか仕事とか見直す機会ってないと思います。自分も苦しかったから辞める決断もできたし、47、48って一つの人生のターニングポイントかもしれないので、20代じゃなくて40代で迷っている人もいるかもしれないですけど、逆に言えばこれはチャンスだと思いますので、そんなときに、こんな変な生き方をしている人間もいる、証券会社、MBA辞めてダンサーになっちゃった人もいるので、そんな生き方もあるよ、と気軽に、常識に囚われず、生きていくためのヒント、参考にしていただければなと思います。一緒に、まだまだ人生長いので頑張っていきましょう、という感じですかね。

湧永:ありがとうございました。

石井:ありがとうございました。


インタビュアー :湧永寛仁 経済学部卒業 湧永製薬株式会社代表取締役社長。 公益財団法人 日本ハンドボール協会会長。

         石井里江子 経済学部卒業 株式会社富士信 取締役。